継体大王の生い立ち
即位後の継体大王
越の国を代表する古墳群
越の国の社会経済情勢
継体大王にまつわる伝説
県内の継体大王ゆかりの地
県外の継体大王ゆかりの地
継体大王ゆかりの団体および自治体
継体大王即位記念事業
関連サイト、関連図書の紹介
トップページ
コンテンツ
なぜか長寿
新幹線
ふくいドットコム

即位後の継体大王

1.継体大王の遷宮

 継体大王は507年に即位したが、宮を転々とし20年後にようやく大和(やまと)に宮を移している。即位した樟葉宮(くずはのみや)は現在の大阪府枚方市樟葉付近とされている。
 岩清水(いわしみず)八幡宮が鎮座する男山の西麓の丘陵上に位置し、現在桓武(かんむ)天皇が父の光仁(こうにん)天皇を祀ったという交野(かたの)天神社の境内の北東隅の小高い丘が樟葉宮跡ではないかと推定されている。その推定地には継体大王を祭神とする貴船(きふね)神社が建てられている。
 その5年後の511年には、筒城宮(つつきのみや)に移っている。現在の京都府京田辺市多々羅都谷付近にあったのではないかとされているが、明らかにはなっていない。
 そして、7年後の518年には、弟国宮(おとくにのみや)に移る。京都府長岡京市今里、現在の乙訓寺周辺ではないかとされている。
 さらに、8年後の526年、つまり即位して20年後にようやく大和に宮を移し、磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)に入った。現在の桜井市池ノ内周辺に推定されている。磐余は天香具山(あまかぐやま)の北東麓を指し、多くの天皇が宮を置いたところである。
 継体大王は即位して20年間、大和に入ることができなかった。継体大王の大和入りに抵抗する勢力がヤマト政権の内部に存在したのであろうか。あるいは、周辺の足場固めを行うため、意図的に入らなかったのであろうか。地方から皇位に就き、即位後は転々と宮を移すなど、継体大王は多くの謎を秘めた存在といえる。

都付近の地図

2.継体大王の日韓交渉

 継体大王の治世期の朝鮮半島では、半島の北方に高句麗(こうくり)、西方に百済(くだら)、東方に新羅(しらぎ)、その間に伽耶(かや)(任那(みまな))があり、互いに争っていた。
 継体大王は百済寄りの政治を行い、任那四県の割譲を行っている。これは、百済が継体大王に使者を遣わし、任那国の上多利(おこしたり)、下多利(あろしたり)、娑陀(さだ)、牟婁(むろ)の四県が欲しいと旨を申し立てたことに対し、穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)らが「この四県は百済に連なり、倭国とは遠く隔たっています。・・・保全のためにもこれに過ぐるものはないと思われます。」と奏上し、4県を百済に割譲したというものである。また、翌年にはさらに、己文(こもん)・帯沙(たさ)の2県を百済に与えている。そのお礼として百済は、五経博士段楊爾(ごきょうはかせだんように)を日本に送っている。このことは、百済の要職に就き儒教、漢文などを教え、朝鮮半島の進んだ文化を身に付けた当時の五経博士は、領土に匹敵するほど重要な存在であったことの表れであろう。(五経とは、「易経」「詩経」「書経」「春秋」「礼記」)

朝鮮半島の地図

3.筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)の反乱の平定

 継体大王が大和の磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)に宮を移した翌年の継体21年(527年)には、新羅が任那(伽耶)を攻め、南加羅などの任那(伽耶)の南部を占領したため、継体大王は領地の奪還のため、軍隊を派遣しようとした。将軍には近江毛野(おうみのけな)臣が命じられ、6万の兵を率いて任那(伽耶)に向かった。
 新羅は、九州地方北部の有力者であった筑紫君磐井が反逆の機会を窺っていたことを知り、これに賄賂を贈り、毛野臣を阻止するように頼んだ。磐井はこれを受け入れ、海路をふさぎ、毛野臣の軍をさえぎり、「昔は仲間として肩や肘をすりあわせ、同じ釜の飯を食った仲だ。使者になったからといって、にわかにお前が俺を従わせることができるものか」と交戦したという。継体大王は、翌年に大連物部麁鹿火(おおむらじもののべのあらかひ)を派遣し、反乱を鎮圧した。
 磐井の墓は福岡県八女市吉田にある岩戸山(いわとやま)古墳と推定され、全長130mの古墳時代後期としては九州最大の前方後円墳である。周りに空濠と外堤をもち、その外堤に方形の区画された別区を付設している。別区や墳丘から石人、石馬などの石製埴輪が出土している。
 こうして、国内外の情勢に対応し、即位後25年にわたって活躍した継体大王は、病により、531年2月7日に磐余玉穂宮で82歳の生涯を閉じた。