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1.越の国の対外交流
継体大王の育った越の国とはどのような環境であったのだろうか。
北陸地方はかつて「コシ」(「越」「高志」「古志」)と呼ばれ、6世紀の段階ではイズモ(出雲、因幡、伯耆)やタニハ(丹波、丹後、但馬)と並び日本海側の重要な拠点の一つであった。
継体大王の父・彦主人王が亡くなった後、母の振媛は男大迹王(おほどのおう)(継体大王)を連れて、実家の越の国へ戻ったのは、単に親戚縁者がいないという理由だけではなく、男大迹王を育てるための環境が近江よりも越の国の方が整っていたためではないかと考えられる。
その表れの一つが、日本海に面し、山陰、九州、朝鮮半島等、遠隔地との交流が盛んに行われるなど、水上交通が盛んであった点である。坂井市春江町井向(いのむかい)から出土した、弥生時代の井向(いのむかい)1号銅鐸(どうたく)には準構造船が描かれており、早くから水上交通が主な移動・交流・交易の手段であったことが窺える。
弥生時代後期には、四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)が山陰から伝わり、山陰で作られた土器も入ってきた。さらに、朝鮮半島からは鉄器類(主に鉄剣、鉄刀)が入ってくるなど、弥生時代の段階でも、国内外との海上交流を行っていたことがわかる。
古墳時代前期(4世紀)になると、ヤマト政権の支配により、近畿の中央文化の影響が強くなるが、5世紀に入ると再び日本海の海の道による朝鮮半島や北部九州から影響が見られる出土品が増える。5世紀中葉の向山(むかいやま)1号墳(福井県若狭町)や天神山(てんじんやま)7号墳(福井県福井市)の金製垂飾付耳飾(きんせいすいしょくつきみみかざり)は伽耶製であり、向山1号墳、鳥越山(とりごえやま)古墳(福井県永平寺町)の横穴式石室は北部九州系のものである。
また、5世紀後葉の二本松山古墳(福井県永平寺町)から出土した鍍金冠(ときんかん)、鍍銀冠(とぎんかん)は日本列島で最古級の冠であり、伽耶の池山洞(ちさんどう)32号墳(慶尚北道(けいしょうほくどう)・高霊(こうれい)郡)の冠と類似しており、関連性があると思われる。このように、継体大王が育った頃の越の国は対外交流を独自に行い、海外状況にも明るく、最先端の知識・文化・技術を取り入れていたと考えられる。
2.「越の国」の農業生産力
以上のように、当時の越前が、国内はもとより大陸との交流により高い文化や技術水準を誇っていたと考えられるが、加えて、全国屈指の国力を有していたことも指摘されている。国力を示す指標として、地域ごとに米の生産量を比較したのが次の表である。
「弘仁式」 |
「延喜式」 |
陸奥 |
1,285,200 |
常陸 |
1,846,000 |
肥後 |
1,230,000 |
加賀 |
686,000 |
上野 |
1,140,000 |
越前 |
1,028,000 |
越前 |
1,095,000 |
陸奥 |
1,582,715 |
播磨 |
1,000,000 |
肥後 |
1,579,117 |
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播磨 |
1,221,000 |
※「弘仁式」主税上は断簡による前欠のため、畿内・東海道の諸国および近江国の数値は不明。このため、それら以外の確認できる国について多い順に列挙。(『福井県史』より)
「弘仁式」(701〜819年の国家法令の施行細則を編纂したもの)ならびに「延喜式」(905〜927年の国家法令の施行細則を編纂したもの)の主税上に記されている公出挙(くすいこ)稲の数値である。出挙とは、播種期に種子を貸与し、収穫期に利子を付けて返済させる慣行のことである。農業生産の推進・奨励、すなわち勧農の1つとして位置づけられており、律令制においては、公的な公出挙(くすいこ)と私的な私出挙(しすいこ)があった。収穫量自体を示すものではないが、米の生産力を見る上で参考となろう。
弘仁式において越前(加賀を含む)の出挙稲数値は、陸奥・肥後・上野に次いで全国4位である。「延喜式」では越前・加賀に分かれているが、これを合算すれば全国2位となる。これらは平安時代の史料であるが、6世紀ごろの実情を映し出していると考えられる。陸奥・肥後などは、おそらく律令制以後の発展が顕著であると思われるため、古墳時代後期ごろには、越前の米生産力が全国一であった可能性も否定できない。
このような、平和で豊かな越の国に育ち、いち早く国際感覚を取り入れ、中央の大和の豪族の情勢を知り得た継体大王であればこそ、今までのヤマト政権の伝統にとらわれない、斬新な政策を国内外で行うことが可能であったのではなかろうか。
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