継体大王の生い立ち
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継体大王の生い立ち

継体大王
福井市の足羽山山頂の継体大王像

 継体大王を知ることができる書物は少なく、『古事記』『日本書紀』『上宮記』の三書のみでそれ以外は伝承や考古学的な資料のみである。
 『日本書紀』によると、「父・彦主人王は母・振媛が顔きらきらして、大変美しい人であることを聞いて三国(みくに)の坂中井(さかない)(福井県坂井市)へ使いを送り、近江国高島郡三尾(みお)(滋賀県高島市)の別業(なりどころ)(別荘)に召し入れてお妃(きさき)とした。」と書かれている。2人は、滋賀県高島市の三尾で結婚し、その後に生まれたのが男大迹王(おほどのおう)(後の継体大王)である。
 男大迹王が生まれて間もなく、彦主人王は亡くなってしまう。そこで振媛は「私は今遠く故郷を離れてしまいました。ここには親類縁者もなく、私一人では養育することができません。越前国高向(たかむく、坂井市丸岡町高田付近か)に帰って親の面倒を見ながらお育てしたい。」と言い、幼い男大迹王を連れて高向に帰った。
 坂井市丸岡町高田には高向神社が建てられており、この付近に高向の宮があったと推定される。
 継体大王は、『日本書紀』によると西暦507年に58歳で即位したとあるので、逆算すると西暦450年前後に越の国(福井県)に入り、即位するまでの50年余りを過ごしたことになる。

1.継体大王のお妃たち

 継体大王は『日本書紀』によると9人のお妃を迎えている(下図参照)。
 『日本書紀』に記載された順序によると、まず最初に登場するのが尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘の目子媛(めのこひめ)。この目子媛の2人の子どもは後に第27代安閑大王、第28代宣化大王になっている。その後、7人のお妃を迎え、最後に即位する時に、より天皇家との血筋を固めるために仁賢(にんけん)大王の娘であり、武烈(ぶれつ)大王の姉にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后にし、子どもは後に第29代欽明大王となった。
 継体大王のお妃の出身地をみると、尾張連草香(おわりのむらじくさか)の娘・目子媛が愛知県、三尾角折君(みおのつのおりのきみ)の娘・稚子媛(わかこひめ)と三尾君堅楲(みおのきみかたひ)の娘・倭媛(やまとひめ)が福井県、坂田大跨王(さかたのおおまたのおおきみ)の娘・広媛(ひろひめ)と息長真手王(おきながのまてのおおきみ)の娘・麻績娘子(おみのいらつめ)が滋賀県、茨田連小望(まんだのむらじおもち)の娘・関媛(せきひめ)が大阪府、和珥臣河内(わにのおみかわち)の娘・荑媛(はえひめ)が京都府、根王(ねのおおきみ)の娘・広媛が岐阜県と思われる。つまり、大和周辺から滋賀県、岐阜県、愛知県、さらに福井県と、大和から東国にかけての豪族の娘を妃にしている。このことにより、継体大王はこの連合勢力に支えられながら擁立されたと考えられる。

血族
出身地
仁賢大王の娘 武烈大王の姉 手白香皇女(たしらかのひめみこ)
大阪府
尾張連草香(おわりのむらじくさか) 目子媛(めのこひめ)
愛知県
三尾角折君(みおのつのおりのきみ) 稚子媛(わかこひめ)
福井県
坂田大跨王(さかたのおおまたのおおきみ) 広媛(ひろひめ)
滋賀県
息長真手王(おきながのまてのおおきみ) 麻績娘子(おみのいらつめ)
滋賀県
茨田連小望(まんだのむらじおもち) 関媛(せきひめ)
大阪府
三尾君堅楲(みおのきみかたひ) 倭媛(やまとひめ)
福井県
和珥臣河内(わにのおみかわち) 荑媛(はえひめ)
京都府
根王(ねのおおきみ) 広媛(ひろひめ)
岐阜県

※記載順は『日本書紀』による

2.継体大王の両親

 男大迹王(おほどのおう)の父方の系譜をみると息長(おきなが)氏との近い関係が窺われる。彦主人王(ひこうしおう)の祖先である応神大王の母は神功(じんぐう)皇后であり、別名を息長足媛(おきながたらしひめ)という。応神大王とその子ども稚野毛二派(わかぬけふたまた)皇子は共に息長氏から妃をもらっている。また稚野毛二派皇子の子の忍坂之大中津(おしさかおおなかつ)媛は、允恭大王の妃となっているなど、父方の系譜は天皇家と近い関係にあり、力があった豪族と言える。息長氏の本拠地は滋賀県の坂田郡南部(滋賀県米原市)あたりとされており、息長真手王(おきながのまてのおおきみ)の娘・麻績娘子(おみのいらつめ)と同郡北部を本拠地とする坂田大跨王(さかたのおおまたのおおきみ)の娘・広媛(ひろひめ)の二人が男大迹王の妃となっている。
 振媛は第11代垂仁(すいにん)大王の子孫である。『日本書紀』には7世の子孫と記されるのみだが、『上宮記』には系譜が詳しく書かれている。垂仁大王の子・磐衝別命(いわつくわけのみこと)は三尾氏の始祖とされ、その孫の磐城別(いわこりわけ)も三尾氏の祖とされている。また、男大迹王の妃にも三尾角折君(みおのつのりきみ)と三尾君堅楲(みおのきみかたひ)とがいる。つまり、振媛の母方の系譜は三尾氏と見るのが妥当といえる。
 三尾氏は従来の説では『日本書紀』に書かれているように、滋賀県の高島市三尾に本拠地を構えていたとされていたが、近年では越の国にあったとされる説が有力である。

系図

3.継体大王の即位

 先の25代武烈(ぶれつ)大王には子どもがなく、お世継ぎをどうするかが問題となった。そこで、大和の重鎮である大伴金村大連(おおとものかなむらおおむらじ)や物部麁鹿火大連(もののべのあらかいおおむらじ)や許勢男人大臣(こせのおひとおおおみ)らが協議をはかった。最初は丹波国の倭彦王(やまとひこおおきみ)を抜擢したが、迎えの兵士をみて恐れをなして、倭彦王は山の中に隠れて行方不明となってしまった。
 そこで、「ご子孫を調べ選んでみると賢者は男大迹王だけらしい」となり、標しの旗と御輿(みこし)を備え越の国の三国へお迎えを出した。男大迹王は「ゆったりと平常どおり落ち着いて床几に腰掛け、侍臣を整列させて、すでに帝の風格がおありになった。」といわれている。最初は「心の中で疑いを抱き、すぐには承知しなかった」男大迹王であったが、「河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)に使いを出し、大臣、大連らの本意を知り、発たれる決心をした。」という。そして、河内国交野郡樟葉宮(くずはのみや、大阪府枚方市)で即位することになる。
 男大迹王が即位できた理由の一つに、国内に様々なネットワークを有していたことが挙げられる。伊勢湾を舞台に活発に行われていた各地との交易や、美濃国の良質な鉄鉱石産地を押さえていた大豪族・尾張連草香(おわりのむらじくさか)からは目子(めのこ)媛をめとっている。また、軍事用の馬を飼った集団で牧(牧場)を抱えた豪族であり、当時、軍事関係の最先端にいたといわれる河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)にもつながりがあり、有力な情報を得ていたという。ほかにも、お妃関係や父方の豪族とのつながりも多くあったといわれる。
 また、『日本書紀』によると58歳というかなり高齢の即位ということになるが、尾張連草香の娘・目子媛との間に生まれた勾(まがりの)大兄(おおえ)皇子(後の安閑(あんかん)大王)、桧隈高田(ひのくまのたかた)皇子(後の宣化(せんか)大王)と二人の息子たちが40歳を過ぎた年齢となっており、後継ぎとして頼もしい存在になっていたことも理由の一つであろう。