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継体大王にまつわる伝説

「治水伝説」(福井市、坂井市)

「治水伝説」(福井市)

 継体大王の時代は、現在の福井平野は大きな湖沼であり、そこへ九頭竜川、日野川、足羽川が注いでいました。
 そこで、男大迹王は三国において河口を切り開き、大湖沼の水を日本海へ流出させ、跡地を一大田園と化すとともに澪筋(みおすじ)、を定めて舟運や灌漑の便を図ったと伝えられています。
 越前の主要な古墳は、川が平野部に流入する付近の山上に築かれています。古墳時代は大規模な水利、治水が始まった時期であり、古墳の立地は水を制する首長の権力を誇示しているように思えます。

「笏谷石採掘伝説」(福井市)

「笏谷石採掘伝説」(福井市)

 「福井市の足羽山から産出する笏谷石は、継体大王が発見し、その利用方法を民に教えたものである…」との伝説にあるとおり、越前の古墳から出土する石棺は、そのほとんどが笏谷石製です。笏谷石石棺の出現は、継体大王の時代よりも古く古墳時代前期に遡ることから、発見された石棺と継体大王を結びつけて生まれた伝説と考えられています。
  中世の職能集団が、自分たちの権利は、例えば「聖徳太子が保証したもの」と皇族等との結びつきを主張することで、領主等の権力の対抗手段とした事例が多いことも考慮する必要があります。越前における笏谷石や和紙に関する伝説も、この視点での検証が必要でしょう。

「笏谷石・立矢の地名」の伝説(福井市)

「笏谷石・立矢(現足羽1丁目)の地名」の伝説(福井市)

 継体大王が悪竜を退治して治水しようとされ、足羽山に登り海に向かって矢を射たところ、矢はぐるぐると水面を回り、やがて海に飛び込んでいきました。すると、矢とともに一面の水が海に引いていきました。そして、矢は三国まで飛び、また戻ってきては落ちて地上に突き立ちました。この地が立矢町(現在の足羽1丁目付近)で、その時手にしていた笏を捨てたところが笏谷であると言われています。

「加輿丁(かよちょう)」の伝説(福井市)

「加輿丁」の伝説(福井市)

 継体大王が近江国高島郡三尾から振媛の里である越前国の高向宮に戻って来た時、その輿に付き添ってきた17人を加輿丁(かよちょう)と呼んでいます。加輿丁は馬来田皇女(うまくだのひめみこ)にも付けられ、皇女の輿(こし)にお供し、皇女が亡くなった後は、その墓の守りをしました。継体大王を祭神とする足羽神社の神輿(みこし)を担ぐのも、これら加輿丁の家筋の者に限られていたといいます。

「漆器の奨励」(鯖江市)

「漆器の奨励」(鯖江市)

 鯖江市河和田地区における越前漆器のルーツは継体大王に遡るとされています。伝承によれば、継体大王が即位前、まだ男大迹王と呼ばれ味真野におられたころ、河和田の人々が黒漆の食器を献上したところ、その色沢が極めて優美であったので、ことのほかお喜びになり、この地域の人々に黒漆の器をつくるよう奨励されたといいます。
 また、河和田の里へ視察の折、地元の人々が美味しそうに桃を食べているのをご覧になり、桃を採ろうとされたところ、足を滑らせ冠を落としました。このときこの冠を修理した片山の漆塗り職人が「三つ組み椀」を添えて献上したところ大変喜ばれ、「片山椀」と命名され、これが今日の越前漆器へ発展したとも伝えられています。

「茨田(まんだ)姫伝承」(鯖江市)

「茨田(まんだ)姫伝承」(鯖江市)
「茨田(まんだ)姫伝承」(鯖江市)

 鯖江市河和田地区に残る伝説の一つ。『日本書紀』によれば継体大王とその妃広媛の間には三人の皇女があり、そのうちの一人が「茨田姫」とされています。河和田地区の尾花町には天王と呼ばれる地籍があり、ここに「茨田姫の古墳墓」とされる墓があります。
 また、付近には「三社森(さんじゃのもり)」と呼ばれる旧跡があります。茨田姫が住んでいたとされる所で、かつてはここには茨田姫を祀る刀那(とな)神社とその社叢林があり、現在はその跡を示す石碑が残っています。

「河内桃(こうちもも)の話」(鯖江市)

「河内桃(こうちもも)の話」(鯖江市)

 河和田地区の上河内町では、古くから桃の木が栽培され、「河内桃」として各地に売り歩いていたと伝えられ、素朴な「河内桃の唄」も残されています。上河内町には、継体大王が河和田の郷へご視察の折、この河内桃をご所望され、村人が献上したところ、ことのほか喜ばれ自らこの桃を取ろうとされたところ、冠を落とされたため、それを漆職人が修理した、との伝説が残っています。

国指定無形民俗文化財「越前万歳」(越前市)

「越前万歳」国指定無形民俗文化財(越前市)

 郷土芸能として国指定無形民俗文化財にもなっている「越前万歳」の歴史は古いです。馬草を食べなくなった継体大王の愛馬の前で、宇津保の舞を演じたところ、愛馬が回復したことから始まったとの伝承があります。
 新年を祝い各地を回り、最盛期の江戸時代には遠く加賀にも出向いたと言われています。
 お囃子の時に使う弓形のバチでこすりながら叩く「すり太鼓」が特徴で、毎年元旦には味真野神社にて初舞が行われています。

神からもたらされた越前和紙(越前市)

神からもたらされた越前和紙(越前市)

 越前和紙の発祥は、継体大王がこの地に住んでいたとされる1500年程前までさかのぼります。美しい姫(上御前)が大滝の岡本川上流に現れ、「清らかな水で紙を漉(す)き生計をたてるがよい」と里人に紙漉きの技を伝授した頃から始まっており、以来、里人のたゆみない努力によって紙漉きの技が伝えられています。
 全国唯一の紙の神様、川上御前を祀る岡太(おかもと)神社・大瀧神社の祭りである「神と紙のまつり」は県指定の無形文化財に指定されており、連綿として、古いしきたりのまま今も受け継がれています。33年ごとの本開帳、50年ごとの中開帳には式年大祭も行われます。
 なお、川上御前を日本で唯一の紙祖神として祀っている岡太神社・大瀧神社は、国の重要文化財に指定されています。

謡曲「花筐(はながたみ)」(越前市)

謡曲「はながたみ」(越前市)

 この謡曲は、室町時代に世阿弥(1363~1443年)によってつくられました。主人公は照日の前(てるひのまえ)という女性であり、継体大王が味真野にいた頃の妃でした。彼が大和に上って皇位を継ぐごとになった際、照日の前に玉章と、形見の花筐を残し、自分を信頼して待っているように言い残していきました。
 皇位についたら必ず都へ迎えるという約束もすでに秋になり、照日の前は迎えを待ちきれずに玉穂の宮へと赴きます。
 その途中、継体大王が秋の紅葉狩りに出かけているところに偶然出会います。行列の先払いの役人が追い払おうと、花筐を払い落とそうとすると、彼女は狂乱して、泣き叫びました。彼女を照日の前とは気づかない継体大王は、狂女に舞を舞うよう命じました。
 そして、照日の前が差し出す花筐を受け取って、ようやく照日の前であることを知り、再会を喜び、彼女を伴って宮殿に入られたといいます。 
 世阿弥は越前を訪れたときに、継体大王の伝説を知り、この謡曲を創作したものかもしれません。

蓬莱祀(おらいし)(越前市)

蓬莱祀(おらいし)(越前市)

 継体大王が507年に樟葉宮(くずはのみや)で即位されたことを地元住民が祝って始まった行事といわれています。
 木ぞり(修羅)に特大の米俵を台座にして、真中に栗の木を立てて、枝には繭玉(餅花)を付け、御幣(ごへい)、鏡餅、松や杉の枝などで飾りつけた山車を住民が引き回します。
 山車の町内巡行には音頭取りと呼ばれる古老の木遣唄(きやりうた)にあわせてにぎやかに進みます。
 岡太(おかふと)神社の祭事で、毎年2月13日に行われ、山車巡行は近年2月11日に行われています。

迹王(どおう)の餅(越前市)

迹王(どおう)(堂)の餅(越前市)

 1500年の歴史を持つ神事で、毎年10月13日に岡太(おかふと)神社で行われています。継体大王が526年に大和国磐余(いわれ)玉穂宮(たまほのみや)(奈良県桜井市)に遷宮されたことを祝った行事です。
 継体大王が河川を改修して洪水を治め、農業や養蚕を奨励するなどしたことに人々が感謝し、餅を差し上げたところ、皇子もまた餅を人々に与えられたという故事に拠っています。
 数え年25歳の若者が氏子の家々を回り、餅を集めて神社に奉納します。餅は御煎餅(おせんべい)として、区民に分与されます。

「キュウリを作らない山岸」の伝説(坂井市)

「キュウリを作らない山岸」の伝説(坂井市)

 継体大王がたまたま山岸へ来た折りに、キュウリの棚で目を突かれました。村人はもったいないことをしたというおわびのしるしに、キュウリを作らないことにしたそうです。この風習は現在も続いています。

「加戸小学校」校歌(坂井市三国町)

「加戸小学校」校歌(坂井市三国町)

~古き代に男大迹の皇子の拓きたる九頭龍遠く光るなり~

 今でこそ、私達はこの肥沃な大地に住み、収穫に喜ぶ日々を送っていますが、この礎は、遠き1500年余の昔、継体大王が、治水治世に尽くされたおかげであると、校歌の冒頭で歌われています。
 なお、県内の小学校校歌では、他に越前市の味真野小学校と花筐(かきょう)小学校の校歌の中でも男大迹皇子の功績が歌われています。