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『日本書紀』によると、子供のいない武烈大王が亡くなると皇位継承者が絶えそうになったことから、大連(おおむらじ)の大伴金村(おおとものかなむら)らが候補者を捜し、越前にいた男大迹王に白羽の矢を立てました。
507年、男大迹王(58歳)は樟葉宮(くずはのみや、大阪府枚方市)で即位。その後、山城国筒城宮(つつきのみや)(京都府京田辺市)、弟国宮(おとくにのみや、京都府長岡京市付近)と都を転々と移した後、526年にようやく大和国磐余玉穂宮(いわれたまほのみや、奈良県桜井市)に都を定めました。
継体大王の后妃は、『日本書紀』では9名、『古事記』では7名となっています。注目されるのは尾張国(春日井市付近)から目子媛(めのこひめ)をめとった点です。伊勢湾を舞台に活発に行われていた各地との交易や、美濃国の良質な鉄鉱石産地を押さえていた尾張連(おわりのむらじ)との関係ができたことは、継体大王の勢力が強大化する背景となったと考えられます。なお目子媛との間にもうけた二人の皇子は後に安閑大王と宣化大王に即位しています。
継体大王の陵墓については、太田茶臼山(おおたちゃうすやま)古墳(大阪府茨木市)とするものと、今城塚(いましろづか)古墳(大阪府高槻市)とするものの2つの考え方があります。なお今城塚古墳は、現在、高槻市教育委員会が発掘調査中で、平成23年春には史跡公園として生まれ変わる予定です。