
磐余玉穂宮(いわれたまほのみや)
継体大王は、526年に弟国宮から磐余玉穂宮に遷都しました。実に即位20年後にして初めて大和の地に入ったわけです。
「磐余」とは桜井市西部および橿原市東部の昔の地名で、およそ寺川から西側で天香具山(あまのかぐやま)の西ぐらいまでの範囲であったと考えられています。
記録によれば磐余池のほとりに4つの宮殿があったとされています。第17代履中大王の稚桜宮(わかざくらのみや)、第22代清寧大王の甕栗宮(みかくりのみや)、第26代継体大王の玉穂宮(たまほのみや)、そして聖徳太子の父親の第31代用明大王の池辺双槻宮(いけべなみつきのみや)です。
稚桜宮は桜井市池之内の稚桜神社に、池辺双槻宮は同市吉備の春日神社にあったとされる伝承が残っていますが、これら4つの宮の所在地については、文献史学、考古学、地理学から様々なアプローチがされているものの、現在までのところ明らかになってはいません。
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