福井県中学校長研修会での講話

 このページは、平成17年11月9日(水)に福井厚生年金会館で行われた平成17年度福井県中学校長研修会での知事講話をまとめたものです。ここでは、講話の中から、平成17年5月に行われた小学校長会、8月に行われた高等学校長協会での講話と重複しない部分を紹介します。

   T 中学校の運営の難しさ
   U 与謝野晶子と教育の問題
   V 「ふくい2030年の姿」の中の教育


【T 中学校の運営の難しさ】

知事講話  中学校は教えるのが難しいだろうと思います。自分の経験からもそうですが、中学校では、小学校的な子どもらしさが残っている問題、もう一方で女性も男性もそれぞれ段々大きくなるわけで、大人になるための肉体的、精神的ないろいろな課題に子供も校長も直面しているのでないかと思います。加えてほとんど全員の生徒が高校の進学という問題を抱えるわけです。これら3つの問題が混在一体となって大変苦労が多いのではないかと思います。中学校は小学校や高校より大変だと思います。先ほど校長先生に、高校や小学校の校長の方が良いのではないかとお聞きしましたら、「いや違う、非常に面白い、刺激が多く活気がある」、とおっしゃられまして、うれしく思いました。と言いますのも以前、私は小・中学校の校長先生の体験談の本を読んだことがあります。ちょうど今から20年前ぐらいのことですが、大都市にある小学校の校長先生の体験談を読むと、よく子どもが校長室に来てくれとか、自分も玄関で子どもが登校する様子を眺めるんだとか、たまには授業を見に行くんだとか、非常に楽しいお話が書いてありました。他方、中学校の校長先生の体験談の本を読みましたら、暴力とか授業が成り立たないとか突然に暗いお話が書いてありました。このように中学校は大変だ、とその体験談から感じましたので、先ほどそういうお話しをしました。そうしましたら逆に、「活気がある、やり甲斐がある」と、そういうお応えが返ってきましたので、とりあえず安心をしました。

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【U 与謝野晶子と教育の問題】

知事講話  最近、与謝野晶子の全集(第17巻)を読む機会がありましたので、その感想を例にしてお話しします。彼女は与謝野鉄幹の夫人で「乱れ髪」の作者、歌人です。福井県の山川登美子さんとの関係もあって、与謝野晶子の本を読もうとしたわけですが、歌の部分を読もうとしましたが沢山すぎるので、後ろに評論があって教育のことが書いてありましたので、その話を参考に申し上げます。大正5年(1916年)頃のことが17巻に書いてあるのです。第一次大戦が始まって3年目、大正デモクラシーの時代、1878年の生まれの人ですから30代後半の頃、お子さんが旧制中学生です。お孫さんは今大臣です。この年は日本の旧制の大学、高等学校、専門学校、師範学校、高等女学校の数が飛躍的に増えた時代です。大衆的な教育を重視する時代になっていました。夏目漱石が亡くなった年です。いまから100年ほど前の話ですが、書いてあることは局面は違いますが、今の話と似たところがあります。この与謝野晶子は子育て、教育の問題、婦人の権利を論じています。参政権のない時代を憂いて男女同権を積極的に展開された人です。

 まず「女の先生」という随筆があります。当時は教師の3分の1は女性だったと書いてあります。理由の1つは、男ばかりでは具合が悪い、学校内の心理的、感情的な調和がいるなどがその時代の理由だったようです。もう1つは、今と違って女性の俸給が安かったので女性の先生が入っていた時代だったようです。しかし、彼女は自分の子どもを女の先生に教えてもらいたくないと書いています。女の先生は教え方がうまくないとか、知識が足らないとか、行動が敏捷でないと書いています。女の人には社会参画してほしいが、自分の子は男の先生に教えてもらいたい、と矛盾したことを書いているのです。結論として、女の先生の発憤、修養を期待したいと書いてあります。男の先生に習ったのと女の先生に習ったのでは、子供の学力が非常に違うと認識していたようです。およそ100年後の現代、場面がどう違い同じなのか、そして今は先生の知識とか指導力が全般的に、もっと必要なのか、こういう話をするきっかけにしていただきたい例にこの話を挙げました。それぞれの時代に先生の指導力、知識、指導技術、情熱いろいろなものが課題としてあると思いますが、現代的な先生の指導力がどこに課題があり、なにが問題であるのかを是非考えていただきたい。100年前にはそういう課題があり、保護者としての与謝野晶子は雑誌にわざわざ書いています。不本意だったのでしょう。

 2つ目に子どもの成長のことを書いています。「子どもの気分」という題です。子どもと家庭菜園をしていたようです。子どもというものは、目先を追ってつまみ食いをするような遊び方をしている。これを問題と思うのか否かという捉え方をしています。子どもは新しく珍しいものを追いかけるもので、自分の子がとくに移り気というのではない。子どもというのは若い芽だから、発育の当然のプロセスとしてこの芽を大事にしたい。それを深く知らない親たち、教師(100年前の教師)は子どもに行儀、秩序、反復、忍耐を絶えず強いているが、このような教育はよくないのではないかと述べています。さて、現代においてそういうことはないのか、あるいは違う局面であるのかを考えていただければという例です。私は、20年ほど前ある県に生活したとき、宿舎が中学校のグラウンドの横にありまして毎朝、指導する先生のでかい声が聞こえましたが、今はどうなんでしょう。子どもを指導するときのやり方、スタイル、言葉遣いはどうなのか、校長先生の立場で考えていただきたい。

 次に家庭と学校ということが書いてあり、「教育家の非常識」という題です。当時はプールではなく、河川や海水浴でしたが、不注意な事故などが多かったようで、こう書いてあります。「一体に日本の親たちは学校の教師を信用しすぎている。教師も人間であるから、自ら注意していても過失はあり得る。教師の注意の足らないところは親たちが補わなくてはならない。教師の監督に一任するのは親にも責任がある。特に自分の子には親の注意するところがなければならない」というようなことを言っています。これは事故だけの問題のみならず家庭での教育をどうするかです。皆さんの学校では、保護者が年何回学校の授業をご覧になるのか、教科書を眺めたことがあるのか、テストはどんな渡し方をしているのか。私の意見としては、親は先生にまかせ切りにしないで、子どもに教えなければならない。学校、先生に一任になっていないかと危惧するところです。昔と比べて今の方がよくなっているのだろうかということです。

 次に試験問題です。「人を陥れる試験問題」という題です。例として旧制高等学校等ですが、当時は文部省が問題を作っていたようで、漢文の問題を例に取り上げて非難をしています。「文部省の入試問題をみると、ひとつとして、受験者の学問知識を自然な発展を考査する親切なものがなく、難問僻問(ひがんだ問題)ばかりである。学問でもなんでもない枝葉末節なことに大切な記憶力を消耗すべきでない。馬鹿らしい問題によって明治以来今日まで試験されているのに驚く」と書いてあります。試験の問題、作り方、出し方は非常に大事なことであり、大事なテーマだと思います。先生は日々試験問題を自ら選んだり作ったりしていますが、そのことに最大限の関心を払わなくてはならないと思います。校長も関心を払ってほしいとの思いでこのことを申し上げました。社会人だと人事異動は関心があるが、子どもにとっては試験は関心のあることです。自分は解答できなくても良い問題か悪い問題かはわかる。子どもを評価する、試す、成果を見るという仕方については細心の最大の注意が必要かと思います。

 次は生徒の独創的精神を中心に話をします。この標題は「学校生徒に対し独創的精神を涵養するに最も適切なる方法如何」です。当時文部省は全国の中学校の校長先生の代表を東京に集めて、学校の生徒に対し、独創的精神を涵養するにもっとも適切な方法はなんであるかという諮問をし、校長先生方はその考えを述べています。歴史的な話題として聞いてほしいのですが、「生徒が自ら考え工夫し、教師に依頼しない気風を作ること。生徒の思考力を養成すること。物理学等の学科では生徒自らに観察実験させること。応用的才能の啓発に努めること。生徒の予習を重んじその知識の錬磨に努めること。修学旅行など機会を利用して生徒の観察力を養成すること。独創的精神の作興に適した教科書の編纂を促すこと。自治的精神の涵養に努めること」、 よいことばかり言う点については、今とあまりかわらない雰囲気です。言い回しは違います。彼女はこの提言を例に挙げて、先生方は少しも教育の問題の根本にふれるような議論をしていない。特に、責任を学生に押しつけていて、先生は何を考えているのだろうか。かつ、 試験重視・試験用の教育、男性は社会順応型の教育、女性は男への奉仕・家庭順応の教育しかしていない。日本人の教育は、日本の発展のため日本人の現在の必要を中心として実際的教育でなくてはならない。世界の競争者になろうとするには、尋常な改革を国民教育に加える英断が必要である、と書いてあります。

 最後に「個性」を生かすということ。このことを彼女は100年前に言っています。個性というのはじっと一人で考えこんだ時の考え方が自分のものであれば個性である。2、3人が、がやがやしゃべっての結論は個性ではないと例を挙げて言っています。

 以上時代も制度も精神も昔と現代では違うわけですが、みなさんの教育現場で何が課題か、どう解決したら良いか、制度上の問題、また学校の中での運営などいろいろあると思いますが、是非一度お考えいただいて、行動に移すべきものは移してほしいと思います。

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【V 「ふくい2030年の姿」の中の教育】

知事講話  この春、約1年近くかけて県庁の若い職員を中心に、福井県の25年後の姿ということでレポートを作りました。マニフェストというのは4年間のもので、非常に短期の考えです。主な手法としては、25年前の様子を雑誌、新聞、あらゆるものを見て、25年でどんな風に世の中が変わったのだろうか。今度逆に返して25年後はどんな姿になるのか。未来学、古典の本をできるだけ読んで、長い期間に世の中がどんな風に変わるかということで作りました。

 この中には教育の問題も書いてあります。「一生自学時代」、自ら学ぶ時代であると書いてあります。学校だけですべてのことを完結できないであろう。死ぬまで学ぶ時代、そこには子どもを中心に据えての時代であるということ。もう一つは「助言社会」、助言をし合う社会にしなければならない。校長と先生が互いに助言をしているか、管理監督はするかもしれない、批判をするかもしれない。しかし校長先生は若い先生に助言をするだろうか。若い先生も校長先生に自分たちはこう思いますと遠慮せずに発言をするだろうか。家庭では親が子供を叱る、文句を言うのではなく、子どもに助言をする。子どもの方も親に対して物事をきちんと受け答えする、こういう福井県にしたいと書いてあります。

 2030年の姿というのは本当の意味は、25年後の姿がこうなるであろうと的中させたいというのではなく、25年後の夢を描いて今をどう直すべきかですから、今すぐ明日からでもやるべきではないか、と思っていただければよいと思います。学校のイメージも書いてあります。「学校は最も高い技術を持った人材と最新の設備を有する教育の場として、専門能力の高い教員が家庭や地域の人達の協力を得ながら、子ども達1人1人の能力や特技を伸ばす多様な選択肢を供給する場である」。表現が立派すぎているかもしれませんが、その心は学校が子どもにとって楽しく、そして最先端の技術や設備や情報があるとそれが期待できることを目指すべきであるということです。学校よりもテレビが面白いとか、コンピューターがいろいろ教えられるとか、別の違うものの方が学校よりいいのではいけないと書いてあると思ってほしいのです。

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