福井県中学校長会研究大会での講話

 このページは、平成18年5月11日(木)に大野有終会館で行われた福井県中学校長会研究大会での講話を要約的にまとめたものです。

 T 校長の役割
 U これからの教育の精神
 V 外向きの活動
 W 先生の教え方


 毎年お話をしていると種も尽きまして、今回は脈絡のない話になるかも知れませんがお許しを願いたいと思います。いま、4時20分ですので5時くらいまでお話ししたいと思います。なお、話をわかりやすくするために条件を付けないで単純化して申し上げるところがありますので、適宜に応用、取捨選択を願いたいと思います。

 ちょうど昨日、教育委員会の教育長はじめ企画幹、あるいは指導主事の方々と懇談をしました。また今日の出がけに企業の方から“教育はどうあるべきか”という意見を伺う場がありまして、いろいろな意見がでました。今日はどんなお話を申し上げるかということですが、一つは校長の仕事というのは何が大事なのかということであります。それから先生はどんな事をするべきかであります。もちろん責任なり役割はありますが、どこまで責任を持つのか、どういう範囲なのか。あるいは学校というのは何をなすべきなのか、どういう限界があるのかというような話です。それから教え方、私は先生ではなく門外漢ですから少し外れた話になるかも知れません。これらをそれぞれ10分くらいずつお話し申し上げますと5時くらいになるかと思いますのでご清聴下さい。

【T 校長の役割】

 まず校長先生の役割ということです。もちろん役目ははっきりしていると思います。抽象的な話になるかもしれませんが、大事なポイントは、校長によって学校がずいぶん変わる、あるいは変えられるだろう、ということです。県民の意識にも企業経営している皆さんの考えのなかにもそうした期待があるということです。皆さんも良く認識をしておられるかも知れませんが、もう一度よく念頭に置いてほしいのです。
 今年のゴールデンウィーク中の新聞を細かく見ました。最近ニュースや特集に教育の話が沢山増えています。新しい教育基本法についての記事もありました。民間出身の校長先生のお話や、全国の実例も紹介されておりました。
 校長先生が物事を変えようとすると学校は変えられる。もちろん良く変えようとするわけです。そういうことを私自身も賛成ですし、皆さんもそう思っているだろうと思います。それで、どうやって改善するのか、実際はなかなか難しいでしょう。勿論子供も父兄もいらっしゃるし、先生がどう考えているか。教育委員会はどうか、などと思っているうちに夏休みになったりするのではないかと思います。その辺をどうやるか。これは皆さんの課題ですし、私が「こうやれ、ああやれ」と言う立場でもありません。
 これは私自身が政治の仕事をしていても同じです。何としてもここがおかしいから変えなければならない。しかし本当にこれが最後まで目的を達しうるよう変えられるか。そして異論があったらそこをどう突破するか。こういうことを思い悩みながらやります。私はマニフェストでそれをやっております。マニフェストは比較的はっきりと約束していますので、それに従ってやっていますが、皆さんには、校長先生のマニフェストというのは、おそらくないでしょう。
 きっと、自らの学校の改革案をお持ちだと思うけれど、そのお持ちになっている100という量の改革案を、実際にはどれくらい、どのような速さで実行できるか。そして、その在校中にその何割が完成できるかというような事を一度考えて欲しいと思います。
 かつ私が外側から眺めますと、学校同士の良い意味の「競い合い」がもっともっとあっても良いと思います。全国の都道府県がどう競い合っているか。県内の市町はどうだろうか。まだ画一的、それほど差がないのではないか、こんなふうに思います。いい例を沢山作っていただいて、Aという学校の校長の良い例を、またBの学校が広めてゆく。大きい事も小さい事もありますが、もっともっとやってほしいと思います。
 私も福井県の行政を先進的にやろうとし実行もしていますが、半年も経たないうちにほぼよく似た言葉が他の県で書いてあるんですね。どちらが先かな、これはちょっと利用されたかなと思ったりもするんです。そういう事があり日進月歩の時代です。是非、中学校長として、良いと思うことを実行していただければよい。このことがお話の第一点であります。
 校長によって学校全体は変えられると、これは真理だと私は思っています。そして、我々知事、あるいは教育委員会がそれを応援をする、こういうことだと思うんです。良いことや積極性のあるものは応援をする。世の中で積極より勝るものはないわけです。前の校長よりも余り変ったことはしないでおこう、そんなことは考えないでほしいと思います。そうでないと進歩というものがありません。

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【U これからの教育の精神】

 次に、二つめのお話を申しあげます。教育の「基本精神」というものをどこにおくかが、日本全体としても話題になっております。福井県としてもいろいろ考えなくてはならないと思います。
 今日の午前中でしたが、京都の宇治でお茶を作っている会社があり、『茶の間』という雑誌のインタビューに来られました。去年は健康長寿とお茶とを絡ませて6月号の雑誌に出たんですが、今年は福井県が『茶の本』原本の初版本を購入したのを聞かれて取材に来られました。どういう目的でそういうものを買ったのか、あるいは岡倉天心先生と福井の関係はどうなのかとか、子供の教育との関係はどうか等、教育の根本精神に関係した話にもつながるわけであります。
 私は『茶の本』の英語初版本を購入し、あるいは昨年は由利公正の『五箇条の御誓文』の入手によって、できるだけ子供たちに、郷土の先人の気概や努力を子供たちにも知ってほしいということでやっているわけです。これからの根本精神というのをどこにおくのか、ということであります。もちろん、自由のない教育というのは避けなければなりません。
 それでは精神とはどういう事柄であろうかという事です。そんなものは今必要なのかという議論もあると思います。私は全国知事会の憲法問題の特別委員長をやっておりますが、憲法九条の問題あるいは人権の問題とか、私は知事会を代表して、憲法上の地方自治の位置づけ、これは教育にも関わるんですが、そういうことを論じております。わが教育の基本方針、精神というものが一体どうあるべきものなのかというのはやはり皆さん方で考えてほしいのです。
 これは、文部科学省が新しい法律を作るだろうから、それを待ち、それに従ってある程度考えたら良いんじゃないか、という考えもあります。私は余りそういうふうには思いません。自ら皆さんがお考えを出していただいて、教育委員会と一緒に自分たちで早目に考えた方が良いと思います。
 そこで、この問題の方向としては大きくは二つあると思います。その一つ目は、自分たちが属しているこの地域社会と言いますか、これは郷土の福井でもあります。広くは日本であり、更に広くは地球であるかも知れません。自分たちの属している世の中、ちゃんと福井のことの理解と説明ができるかということが、これから大事だと思います。
 特にグローバルの時代、時代が複雑でありますが、そういう事ができなければ我々自身の拠って立つ基盤というものが分からなくなると思いますし、島国のままではおられないのでして、日本も福井もその点では同じ課題をもっています。教育の精神は各人が自己を知ることかもしれませんが、すぐには直接に知ることができないので、自分たちの周りや社会、地域のことをまず知ろうとすることが第一でしょう。
 昨日、芥川賞作家の津村節子さんからお手紙をいただきました。夫の吉村昭さんも小説家であり幕末の史伝も沢山書いておられます。福井の応援をしてもらっています。最近全国で文学館というものがたくさんできているようです。そうした地域の偉人や文学者に関するシンポジウムが地方で行われて、先生はよく呼ばれるみたいです。ご自身の郷里の福井には立派な先人達がいるはずだから、もっと全国にも知らせたいというお手紙が来ました。県立図書館でこの春から、25人の福井の文学者の方々の展示なども行っています。そういう動きが全国的にも広まっており、大事な事柄かと思います。
 それから白川先生の文字学といいますか、こうしたことを福井県は大事にしなければなりません。白川先生はいま96歳位になられました。長い間研究をされ、漢字学や文字学の研究を積まれました。外国語も大事ですけれども、それ以上にわれわれの思考や文化の基本になる日本語や漢字というのが重要であります。福井県としては、国語学、文字学という部分でですね、やはり日本の最先端の県にならないといけないと私は思っております。
 これら歴史、文学、言葉などは、みんな先ほどの「我が郷里とはなんぞや」「我々の拠って立つ基盤はなんぞや」ということに関わるテーマの糸口になると思っております。
 この話について更に問題を深めて考えますと、今申し上げましたように、一人一人の子ども達がいったい社会との関係で自らをどう理解するか、難しい言葉で言いますとアイデンティティー、あるいはモラル、こういうものを確立していくかという二つ目の基本のテーマにつながります。
 狭い意味の基本的な精神ですね。これは最も難しい話であります。一人一人の個人の話であります。これも是非考えなければならないテーマであります。モラルとか躾けとか、あるいは忍耐力がどうだとか、いろんなことがございます。そういうものをいかに教育の場で教えていくか、あるいは体験するかというのがテーマであります。これは抽象論を言うだけでは全然解決にはなりません。具体の場で実行しなければなりませんし、継続をしなければならないのが実際であります。クラスの子供一人ひとりが全部個性も環境も能力も違って大変なのです、と言うだけでは先に進みません。子供の心の問題もまた校長先生方のテーマかなと私は勝手に思っています。
 少しこのことに関連して、連休の前に新井白石の本を読みました。この人は18世紀初め徳川家宣に仕えました。『折たく柴の記』という本がありますね。自身の父母の思い出、子ども時代の回想、それから将軍に仕えてからの改革(正徳の治)の実際、こういうことが1冊の本になっております。なかなか面白く書いてありますし、そんな長い文章じゃありませんので、一度機会がありましたら読んで頂きたいと思います。
 そこの最初の部分に「忍耐」ということが書いてあります。白石の父母が絶えず実行し、また自分も教えられたのは、この忍耐の一字だと書いています。耐えること、これが全てである。単に我慢するということではなくて、物事を長い目で見、少しの障害があっても忍耐をして何事かを成し遂げる。これにつきるんだということが強調して書いてあるわけです。現在では最も流行はやらない言葉でありますが、流行らないと言うことは逆に現在価値があるということかも知れません。そういう言葉はともかくも、継続をして何かを成し遂げる。私も子どもが3人おります。頭の働きもそれぞれ差がありますし、性格も不思議なくらい違います。非常にせっかちもいます。やっぱり気が長くて素直な子どもが物事をよく物にしているような感じがあります。どうも気が短くては、ものの理解が早くとも、それほどたいした結果はあげられないなという感じがいたします。万事そうとは限りませんが、やはりこう長い目で子供を見て、今日よりも明日へと進歩させるという教育というものが重要かと考える自例であります。

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【V 外向きの活動】

 次に三点目でありますが、先生が何をなすべきか。これは校長先生というより担任の先生の話になります。どういうことが期待されるか。昨年の3月に『ふくい2030年の姿』という25年後の姿を、県庁職員が自分たちで作った本がありますが、ご覧いただいておられるかも知れませんし、ホームページでも見ることができます。
 その中で考え方として一番大事な部分として、“内向き”から“外向き”、外へ向かないといけない、というテーマが書いてあります。これから教育の場でも重要かと思います。例えば、個々の担任の先生だけで何でも解決しようとすると、見ようによってはこれは内向き的であります。校長先生とよく相談して学校全体でやろうとすると、より外向きになります。しかし学校だけでやろうとしてもできない事があります。するともっと外向きにならないと出来ないことになります。地域の皆さんとの関係が出てきますよね。するとだんだん外向きになってくる。そういう意味で、内から外へいかに向いていくかの観点、これがこれからの教育効果あるいは学校という組織の活性化、システムの一つとして活きてくることにつながる。
 特に若い先生方、地元で生活をされ、地元の大学を卒業されて、すぐに先生になってしまわれる方も多い。すぐ社会人になった途端に子どもを教えなければなりません。全部自分で責任を負わなければならない世界ですから、大変であると同時に無理が生じ、ともすると内向きにならざるを得ないことになる。これをいかに外向きに改めてゆくかは校長の務めでもありましょう。なお、当然のことですが、外向きというのはもののとらえ方の一つであって、一筋縄ではいけませんし他の影響も考えに入れる必要がある。このことを念頭において下さい。
 さてここで次の大事なテーマはですね、先生方あるいは学校の組織が、どこまで生徒の教育問題に責任を持つかということです。これは厳密に線引きは大変でありすが、こうした問題を一回この際考えないと、なかなか問題を有効解決できないんじゃないか、と私は最近思うようになりました。皆さんはどう思っておられるでしょうか。個々の先生が、学級について全ての責任を持つという事は不可能ですから、その気概とは別に万能を目指すとなると、逆にある意味で無責任につながるかも知れません。そんな事はスーパーマンじゃない限り不可能でありますし、何事につけ難しい時代でもあります。
 私は30人学級をマニフェストによって進めていますが、これは考えようによっては、全部先生で解決してほしいという問題につながるかもしれません。先生方の人数は増やすけれども、全部先生方でやって下さいと言う意味にどうしてもなりがちです。
 それから、栄養教諭です。これも栄養士さんが学校の先生の資格を取っていただいて全国に先駆けて行いました。人数も今年は二年目になりますが日本一多いはずです。これも学校の先生で食育や何でもやってほしい。それだけでは内向き的ですね。全部自分で、先生方でやれるはずだと、そういう意味にどうしてもなりがちだと思います。そういうことだけで全て解決できるだろうかということであります。
 最近は高校の先生が学習塾へ勉強に行ったり、中学校の先生も行かれるかも知れません。これは外向きといえば言えます。学校だけで問題を解決しないで、塾で広く学習の実態を見ようと外向きになっています。しかしそれを実行するのは、やはり先生ですから内向きかも知れません。しかし最近は先生のOBの方に戻っていただいて、塾のような仕組みを作ろうかと文科省は言ってます。これは政策としての良否はともかくかなり外向きな話です。
 問題解決の図り方は我々が決めなければなりません。何が良いかを判断すべきであります。それは校長先生方の意見が重要であります。特にこれから内・外の話をしますと、ご家庭との関係ですね。父兄との関係をどうするか、皆さん方は家庭訪問とか、いろいろ苦情がきたりします。先生が時々校長室に入って相談ごとをすることが多いのではないかと思うのです。全部担任の先生が責任持って最後まで解決できるのか、違う方法があるのかということが、いま申し上げているテーマだと思います。全然他の人に任せるわけには行かないと思います。なにかそこで新しい世の中に合った方法というのがないのかということを、考えてみる値打ちが十分にあるように私は思っております。
 では部活はどうだろう。専門じゃない部活をやっている先生はどうでしょうか。皆さんの学校の中の半分くらいの先生がそうではないでしょうか。先生も生徒も大変じゃないかと思うのです。専門家に依頼すると何が問題か、先生はどう関与するのか。十分話し合いながら問題解決に当たる必要があるだろうと思います。
 家庭教育をどうするかも、なかなか分かったようで分からない。家庭教育は大事だと口ではいろいろ言えますが、実際どうしたらいいのかなかなか難しいですね。学校からいうと外向の話になりますが、教育としてどう取り組むのか、新しい何かスタイルを発明しないとこれは大変かと思います。これまで何となく「お箸の持ち方は家庭だ」、「これは家庭でやって貰わないと」などと言ってましたが、それでは解決ができないでしょう。

 さて、いろんなことを申し上げましたけれども、課題は多いのですが、いま実行中の教育関係ビジョンというのがあります。改めていま申し上げたようなことも踏まえて、全体的な議論をするとよいのではないかと思います。皆さんが決めることに対し応援をすべきが私の立場であります。皆さんが議論していただかないと始まりません。一人ひとりがものを考えて実行するのは大変でしょう。ですから各学校で共通すべきことはできるだけ共通事項をはっきりさせながら、皆様方が議論することが有効かなと私は思うのであります。

 あと10分くらいございますのであと一点お話しします。

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【W 先生の教え方】

 四つ目のテーマであります。もうこれは雑談的になります。教科の「教え方」を申し上げたいと思います。校長はそれぞれ数学とか歴史とか理科とか専門の学科をお持ちなんだと思います。一度「教授法」と言いますか教え方を見直して貰えるといいのではないでしょうか。これは先生の仕事の分野ですから、工夫して欲しいのです。
 ここで一つだけ質問をします。皆さん方で子どもに例えば数学の問題集の解答ですね、答えを予め渡した方が教育効果があると思う先生は手を挙げて下さい。はい次に、逆に渡すと(答えだけ書いて来るから)良くないと思われる人は手を挙げて下さい。(わかりました)だいたい後の考えの先生が多いようですね。それが正しいのかも知れません。私の頃の高校の場合ですが、数学を例にしますと、答えの手に入らない問題集を使っていました。そして学校で板書させたうえで答えを教える。中学校ではどうなのか知りませんが、皆さんはどうかと思いまして質問してみました。教え方には先生にも考えの違いがあるでしょう。
 学校毎に学科の先生の集まりもありましょう。教育委員会の議論、また教育研究所の研究もあるでしょう。新しい時代に備えての教育法を高め、進化をさせて欲しいと思います。塾へ行くのが研修の本来の目的ではなくて、教え方、違う観点というものを先生に体験してほしいという事だと思うのです。新しい世界を外向きに見ながら、福井県としてどういう教え方がいいだろう、昔は先生のライバルは存在をしませんでした。今でもほとんど存在しません。皆さんと塾の先生とは、学校に子どもは行かなければならないので、純粋のライバルではありません。テレビやコンピュータは、先生の、だんだんライバルになってくるように思います。しかし、ライバルということではなく、うまく活用して貰わなければならない訳です。世の中の動きに合わせて、教え方なり教える水準をいつも見直していただきたいと思います。
 僕が中学校の頃の英語の勉強は、単語帳でA・b・o・u・t…約・およそ、A・b・s・e・n・t…欠席の、と覚えました。全然言葉の使い方が分からんのですね。「I am absent」と言うのか「I absent」と言うのかも分からない。分からないそういう単語の勉強をしましたが、今もそれに類したことはやっていないか、どうでしょうか。単語の覚え方、ノート一枚に単語ごとに20か30書いて何頁かを学校へ持って行った覚えがあります。数学もそうですよね。方程式というのは一番子ども達が躓く分野ではないでしょうか。高校ですと因数分解に躓くかもしれません。因数分解というのはこれは数学において何のためにあるのかを習わないのですよね。問題が出ますと、これは考えて覚えるものではなくて閃いて答えが出るものだと私は誤解をしました。因数分解でなくて逆のことをやり始めて、元へ戻ったりしました。覚えたらいいんだろうと私は今は思っています。実際どうなんだろうか。
 それぞれの学科の基本なり、鳥瞰図、関係というもの、なぜこれを学ぶのかをもっと子どもに教えるべきでないかと思います。そのためには教科書で習うより以上のことを用意していないと、子どもの理解は進まないでしょう。教科書通りの議論ではですね。特に中学校位になるともっとそういうことが言えると思います。三角形の面積は「底辺×高さ÷2」であるというのはその通りであります。そして長方形を書いて、こうやりまして頂点から垂線を立てますとちょうど面積が半分ずつじゃないかと。つまり長方形の縦横をかけて半分であると言うことで分かるのです。しかし、頂点が完全にずれていって、ひっくり返るような三角形を、なぜ「底辺×高さ÷2」だろうと私は分かりませんでした。そういう議論をより深い立場で教える。これ特に理科系などで大事なのではないでしょうか。しかし学校の現場ではなかなかそういう教授法というのがされていないのではないかなと心配します。

 大体時間がきました。問題は『校長先生の役割』ですね。それから『教育の精神』、『外向きの活動』つまり先生と校長先生との関係、学校と外、社会の関係、そして『教え方』、いろいろ議論があります。日々のことに忙殺されて「そんなことまでやっておられない」と思われるかも知れませんが、だからこそ、そんなことを考えてほしいのであります。

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