福井県小学校長 学校運営研究大会での講話 |
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このページは、平成18年5月18日(木)に大野市文化会館で行われた福井県小学校長学校運営研究大会での講話をまとめたものです。
T 現代の教育の難しさ
U 子供と先生の年齢差について
V 学校が変わるということ
W 外向き性について
X 徹底性について
Y 自由さについて
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みなさんこんにちは。今日は小学校の校長先生にお話をするということでまいりました。1週間程前に中学校の校長先生にも同じく大野でお話をしまして,それから退職校長先生にもお話をということで,1週間の内に3回ほど先生に話をすることになりました。教育のお話を中心に,ただ,中学校と同じ話をする訳にはいかないので,うまく話が合うかどうか分かりませんが,校長先生ですから,その辺は適宜中身を選択してもらいたいと思います。極端な言い方をいたした所はその真意をお取り願えればと思います。
【T 現代の教育の難しさ】
1年ほど前でしょうかテレビを見ておりましたら,どこの国か忘れましたが遊牧民の教育の話が出ておりました。所得は低く子どもがたくさんいて,日本なら小学校4,5年生くらいの娘さんに向かってお母さんが言うのです。「おまえを学校には残念ながらもうこれ以上もうやれない。羊もたくさんいる。誰がこれを面倒を見るのだ。小さい赤ん坊もいるではないか。誰が子守をするのだ。おまえしかいないじゃないか。だからもうおまえを学校にはやれない。」そうすると突然その子は泣き出します。残念だ、悔しいと。そして,仕方なく羊を野原に遊牧に出かけているシーンが出ます。時々,家に帰って教科書のようなものを一生懸命見て、日本でいうと漢字の練習をしているような場面でした。これは戦前や戦後間もなくの日本とそう変わらないと思います。我々にとって今では別の世界のように,地球上にそんな事実があるのかというような世の中ですが,やはり,地球上に現在そういうものがあるし,我々もそんなに昔ではない時代に経験し,そして今の日本の教育があり,福井の教育があるということを感じたのです。
学校に行けない,教育を受けることができないということが子どもたちにとって,悔しい,なんとかして家で勉強したい,しかし日本はそういう時代ではないということです。そこに教育の難しさの原点というものが,今の日本にあるのだろうと私は思っているわけです。ここから我々はいろんなことを考えなければならないと思っています。
皆さんはこれまでも教壇に立たれ,また,現在は校長として教育問題に日夜悩みながら仕事をしていらっしゃるわけです。教育というのは本当は大事な価値のあるものなんですが,学校や教育が余りに有り触れすぎて大きな価値を感じ無くなった人々が増えているのです。これは良くないことですし間違いなんですが。そういう時代の現実の中で教育を皆さんと我々行政とが一緒になって進めなければならないのです。
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【U 子供と先生の年齢差について】
さて,小学校,中学校,高校の間で,子供の年齢はちがっていても先生方の平均年齢の方はあまり変わりはないということです。そういうものかなと思ったんです。というのは,私が福井県に最初に赴任したのは10年余り前ですが,ちょうど副知事のときです。退職された先生の表彰式がありまして,知事の代わりにあいさつを申し上げましたが,ちょうど高校で習った先生が退職されるときでした。つまり私が17,8歳の頃におそらく20代,大学を卒業されて数年しかたっていない方が定年を迎えられたということです。英語の先生もおられましたし,体育の先生もおられましたし,それからもうお一人は数学の先生でした。そういう先生方がいらっしゃいました。どんどん1年1年お互いに年を経て,本年あるいは昨年あたり,今度はどなたの表彰をするのかなと思いましたら我が同級生でした。つまり,高校では若い先生と生徒とは10歳くらいしか年が違わないということです。
したがって,子供たちには小学校,中学,高校とありますが,そこで学ぶ児童,生徒と先生の年齢差が最も大きいのが小学校であるということを,そのとき実感として感じたのです。
したがって,特に小学校の校長先生は最も先輩の先生ですから,小学生たちと最も年齢の遠い世代感覚に差のある先生であるということにならざるを得ませんし,それは真実であると私は思います。ですから,小学校全体は若い先生も中堅の先生も校長先生もいらっしゃいますから,平均年齢は永遠に変わりません。一定の年齢でいつまでも若いわけです。しかし個々の先生にとっては,子どもはだんだん若くなっていく。そして,自分は年をとっていく。式典に出まして私はそういう感じを抱いていたわけです。できるだけ若い先生に小学校で教えてほしいという気持ちもあります。私の子どもの頃の経験では,小学校の時に若い先生に習いたいという、私は本能的にそんな感じを抱いたのです。子どもにとって楽しいとか,あるいは元気が出るとか,そういうことがあるかもしれませんので,特に校長先生に御配慮願いたいのです。若い先生にできるだけ若い1年生を,そして,若い先生がトレーニングして,できるだけ小さいお子さんに教えてもらう。そうすると子どもは喜ぶのかなと考えた話です。これは正しいかどうか分かりませんので,いろいろご研究を願いたいと思います。
それから,校長先生は子どもたちと年齢が最も遠いですから,いろいろお話しになったり子どもと接触するときには,新採用の先生のような気分がおありだと思います。私も今では知事になっておりますが,公務員になって間のない20代30代の気持ちがかなり残っていると思っているのです。しかし,若い職員はそんなこととは全然思っていません。校長先生方には,その年齢差を考慮して,いろんな行動をされることが重要と私は思います。いつまでも気持ちは若いでしょうし、行動力もあると思います。しかしそこには基本的な差というものがありますので,校長先生がお子さんに接する場合には,その部分をご自身あるいは校内の先生方と役割分担をされて、子どもたちが先生方とはつらつした人間関係をつくれるようにすることが大事だと思ったのです。これをまず最初にお話ししたいと思います。
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【V 学校が変わるということ】
それでは、次に少し具体的なお話を申し上げます。これは,私が勝手に外部から眺めて想像を交えてしゃべってますので,当たってるか当たっていないか分かりません。後でまたご意見をいただきたいと思います。
1つは,中学校の先生にもお話ししましたが、これからの学校は校長の考え方や努力次第で学校が変わる、変えられるということです。これまでドラマチックに学校が変わるということは,あまり世間では目にすることはございませんでしたが,今,全国でいろんな経歴の校長が実際にいらっしゃいます。今まで社長をしていた校長がおられたり,突然経験のない方が校長に就任される例があります。そういうことが許され望まれる風潮になったわけです。しがたって最近の実例を見ても分かりますように,校長によって学校が変わるということを皆さんが思っていると思います。こういうことを認識する必要があります。
では,結果として変えたことは良いことだろうか。皆さん研究をしておられますから,おそらく答えをお持ちかと思います。私の答えとしては,良い部分もありそうでない部分もあるかと思います。しかし新聞などを見ると,良い事をやろうと思って変えるのだから,かなり良いこともあると書いてあります。これもみなさんのご意見を聞きたいと思っています。
さらにではその変えたことを、最後まで続けられるかということがもっと大事です。また,次々とタイミング良くさらに改善を加えられるか,ということが重要です。これについてはよく分からない気持ちがしています。ものを変えることは易しいのですが,これを続けることは大変難しいことなのです。この点についてはさらなる検証が必要ではないかと思います。目先は良かったけれども,長い目で見てどうなのか,子どもたちの何年後かにどんな影響があるか,こういう事が議論になると思います。こうなるとなかなか物事を変えるというのは難しいし,慎重にならなければなりません。
私もマニフェストでいろいろと改革的なことを進めておりますが,いつも思うことは,あることを改善しようと思うことを判っきり決めなければなりません。マニフェストでは為すべきことは大体決めておりますけれども,さらにそれが続けられるかというということが、私の一番の関心事であり気にすることです。どんな些細なことでもそうなのです。良いことだと思っても果して続けられるか,これはなかなか難しいことです。
例えば今,30人学級とか少人数学級化を進めていますが,これは続けられるだろうと私は思っております。教育委員会でも頑張っているわけです。しかし他の教育問題もこれから出てくると思いますが,続けられるかということが重要です。例えば校長先生がこれから良い方向へ直そうといたしますと,どうしても直すべき所について,先生方の共通理解がないと難しいものです。基本となることをしっかり持って,最後まで行き着くことができるかという事に注意がいるのです。是非これは直すべき事だということを,共通理解としてご認識していただく事が必要だと思います。そういう基本的な方向を決めながら,教育委員会あるいは行政は、現場の皆さんが直していくべき変えていくべきだということについては余り細かいこと言わずに、応援をするという方向が望ましいのだろうと思います。したがって細かいことは学校ごとに違っても構わないんです。しかし大きな方向は共通認識をもって進めていただきたいということです。
改善,改革,良いこと,などと様々なの言葉遣いをしましたが,そこで今,どんなテーマがあるのかということです。福井県の教育は立派だと思っているからそんなに直すことはない,何か問題があるんだろうか,という方もいらっしゃるかもしれませんが,もっとあるかもしれないということであります。そこで,あえていくつか私が思うことをまとめましたので申し上げます。これは無理してまとめましたことと,また抽象的ですから,当たっているような当たっていないような感じがすると思いますので,皆さん方で,応用をきかせてほしいと思います。
1つは,学校における教育の枠についてです。難しい言葉で言いますと,決まりとか枠とか規律をはめて子どもを教育するという事をやりすぎていないかということです。統制がとれていれば満足していないかと言うことです。
もう1つは,先生がいま全力で責任を持って授業や学級担任をやっていますが,その先生方の担っている分野・範囲は今のままで適当なのかということです。家庭との関係。様々な子ども,保護者がいましょうけど,家庭では何をしてもらうのか。例えば箸の持ち方や,きちんと座っていること,いろんなことがあると思います。それら家庭との関係。また最近では学習塾との関係。さらに,他の専門家が最近活躍しておりまして,学校にもカウンセラーやボランティアの皆さんなどの応援の方に来ていただいていますね。さらに最近はコミュニティ・スクールという方法で地域との関係も出てきているわけです。そういう人たちとの分担や連携がどうあるべきかというのが大きなテーマだと思います。
3つ目は,みなさんの学校の教師,先生方に対するトレーニングが十分であるか。これは校長先生の監督としての責任分野が出てくると思います。そのトレーニング,コーチングで果して足りているか、水準は大丈夫かということがあります。さらに,先生方が教育に自信を持ち,教師としての誇りを持っているのだろうか,自信につながるためにはどうしたらいいのかというテーマであります。
4つ目は,子どもたちが教育を受けるわけですが,その前提となる基本的な、子どもたちの中から引き出す精神とは一体どんなものだろうかということです。去年は「五箇条の御誓文」を購入しました。これは,福井県の子ども達が郷土に対して誇りと自信をもち、先人の気概を知るというねらいから購入しました。そういうことに係わる問題です。また、今年は「茶の本」が英語で発刊されて100年目、これは郷土の先人の偉業であります。こういう事を考えて「茶の本」を購入したりいろんな事をやっています。さらに,白川靜先生は一昨年文化勲章を受章されましたが,こうした文字学,国語学の問題を福井から発信すべきだと思っております。また,昨年は国民文化祭がありました。これらすべてこれにかかわるわけでして,こういうことを行うのは確かに良いことです。しかし肝心なのは,子どもたちの精神,これは先生方の教育精神にも関係するわけですが,これをどう深め強くしてゆくべきかということであります。もちろん教育基本法の議論などにもかかわるわけですので,福井県としてこれまでも考えてきただろうし,今まさに考えなければならない時期と思います。戦後60年が経過しました。この60年というのはどういう事かといいますと,社会活動をしている全ての方が戦後教育を経過したということであり,戦後教育を受けたその子どもも戦後教育を受け、その孫も受け始めているということです。3代に渡って皆さん方が進めてきた教育が,我々いまの社会を構成するすべての世代の頭や行動の中に染み付いてきたということであり,ひと回り完成したということです。そういう中でもう一度,我が日本の福井の教育がどうなんだろうと,その理念や精神というものを考える必要があります。
いま理念ということを申し上げましたが,教育の「理念」というのは,先生方が教育の現場で体験している現実を超えた先の,教育の理想や完全性が何なのかを表す言葉です。これを理念と我々は正しくいうべきです。皆さんは教育の経験はしてこられたけれどまだ不完全である。完全な姿とは何かということ,これが教育の理念ですし,教育の精神であると思います。そういうことを今一度考えてほしいということが,4つ目のテーマです。
5点目ですが,これは非常に即物的なお話しですが,教授法,教え方の問題です。皆さんが長年にわたって培ってこられた教育委員会,教育研究所,指導主事の皆さん,学校での先生の教材研究などです。その中で生まれたものが,いろんな学科の教授法,教え方であります。これが今のままでよいのかということを一度考えていただきたい。恐縮な事ですが最近高校の先生方を中心に学習塾等へ勉強に行っていただいております。良い悪いは別として,いろんな方法の教え方なるものが世の中にはあるのです。皆さんの教え方とどう違うのかを研究をする必要がある時代だと思います。教授法というのを一度校長先生のお立場で研究をしてほしい,私はこんな風に思っております。
以上5点申し上げました。その他にもいろんな大事なテーマがあるかもしれませんが,ありましたら皆さんからお示しいただきたいと思います。あるいはとらえ方の基本が違うということがあるかもしれません。その点はお許し願いたいと思います。
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【W 外向き性について】
それではこういう問題をどうやって解決するんだということですが,これは具体的な教育の現場,または教育委員会の皆さんが作成された教育振興ビジョンの実践によって進められるわけです。しかし、今新たな課題にもう一度チャレンジをしようということになると,そこにおける視点というもの,ものの見方が重要であると思っています。そこで,数点申し上げます。
1つは,外向性です。外に向くというアウトワード、アウトサイドです。皆さんから言って外向き性です。ちょうど1年前の春,県庁の若い職員の皆さん、教育委員会の方もいらっしゃったと思いますが「福井2030年の姿」を作りました。福井県の25年後の姿を考えてみようということです。この新しい時代どう考えていくか,将来の姿を考えながら今を生きていくということだと思います。その中で重要なテーマとして内向きから外向きというテーマを出しておりますが,この視点を教育の見直しを考えるときにとり入れていただいてはどうかと思います。
われわれ福井県民はあまり積極的な県民ではないような気がします。自分を強く出さない,前へ出ない。例えば,質問ありますかと聞かれても手を挙げないとかね。福井県どうですかと尋ねられると,特別にありませんという感じです。積極的にアピールしないというのが,わが福井県人の性格ではないかと言われます。もちろん良いところでもあります。自分の実力を固く信じて粘り強く生きていくことも人生です。しかし,外向きということをもう少し考える必要があるだろうと思います。
あまりにも皆さんは内輪といいますか、学校の校内を考える。福井の中だけで考える。これだけでは,これから民間の人たち,他の46都道府県や世界の人々と競い合う場合,内ばかり見ていると負けてしまう,負けたのもわからないということにもなりかねないわけです。お互いの心配りも重要なことですが,もう少し外を向いてほしい。皆さん自身の体験も外へ広げる。地元のことしか気にしない,地元の体験しか望まない,のではいけないのでして外向きが必要です。広く外に開くことによっていろんな情報も入りますし,結果として教育の水準も上がってくるように思います。
なぜこんなことを申し上げるかといいますと,私自身も行政の仕事をしていて東京に行ったりいろんな人とお会いしますが,やはり福井県の中に居ただけでは良くないと実感として思うわけです。皆さんもお忙しいですからなかなか余裕もないかもしれません。しかし絶えず意識を外へ向けるということが大事だと思うのです。例えば先生方の数を増やして教育を充実するというのも大事なのですが,あまり外向きではないことです。先生の中で解決しようということですし,去年から栄養教諭を採用していて,日本一早くかつ数も多いのですが、これも内向きといえば内向きです。自分たちだけで解決しようとする。それでも,だんだん外へ向けていくという意識が重要だと思うんです。コミュニティスクールは,小学校から外に地域に向いています。第4の教育力などという考えもそうです。それから,県下の小学校の中には,ITなどを使って全国のコンクールに優勝して、アメリカまで説明にいったという学校もあったと思います。県大会から甲子園,ワールドカップへとだんだん広げていかなければ進歩というものがないわけですし,いつまでも井の中の蛙ということになってしまいます。
先ほど郷土教育,茶の本とか白川先生,継体天皇のお話をしましたが,これと裏腹であります。内輪だけでやっていると外から見た良さ,自ずからのアイデンティティが逆にわからなくなるのです。外を向くから初めて福井の良さも分かり,福井のことをアピールしたい,どうやって説明すると良いのかということもわかります。このように,外向きということを少しお考えいただきたいと思うのであります。
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【X 徹底性について】
もう1つは,徹底性ということをお考えいただきたいと思います。例えば,高校の先生が塾に勉強に行かれる,そこへ研修しようということで行く。例えば数日間行くとします。これで徹底しているのかという観点から言うと、不徹底だったという問題が出てくると私は思います。ちょっと行って,ああこういうものだわかったと思われるかもしれませんが,本当にわかったのかしらということになります。このようなことを例にして徹底ということを,いろんな分野でお考えをいただきたいのです。
また,皆さん先生方に個性やゆとりのことを考えて,「1クラス何人くらいの学級が良いでしょうか」また「教え方はまだまだ改善できるのではないのですか」とお聞きしますと,大体次のような答えをいただきます。子供の数も多く,実際には本当にいろんな子がいまして,一人ひとり違うんです。そのことだけでも大変です。そして結局どのレベルの子供に教え方の重点を置くかになってしまいます,という答えです。確かにそうなんですが,さてそこからです。本当に各先生方が一人ひとりの子どもたちについてなにか学習の目標なり到達度というものを念頭に置いて,徹底した精神をもって教育をされているだろうか。されておられるけれども,程度はどうなのだろうか。また子供側の問題はあるにしても,教授法の向上がもっとできるのではないか,と思うのです。
皆さん,小学校から高校までにおいて,福井の子どもたちが一生懸命に、最も勉強するのはどの時点だと思われるでしょうか。高校受験でしょうか。大学受験でしょうか。そういう答えもあるかもしれません。しかし極端な例を挙げるかもしれませんが,自動車学校の免許をとる時の熱心さが最強でないかと思います。これは大体普通の方は必ず通るはずですし,現に運転をしていますよね。何回追加の筆記試験を受けても,必ずがんばって泣いてでもその試験に通ろうとしますし,現に通っておられると思います。目標がはっきりしていて,クリアしないと一人前の社会生活ができないということですから勉強するわけです。学校以来はじめて勉強したということになります。このように子どもたちにできるだけはっきりした目標なり夢を示しながら,いかに徹底して子どものために教育をするかというのは非常に大事なことです。部外者ながらそんなことを感ずるものであります。
学校の先生方には研修の余裕もそれほど多くありませんし,教え方は評価しにくい分野です。一般行政職より評価しにくいですし,民間のように売り上げの基準があるわけでもありません。明確に結果が出るわけでもありません。失敗もあるような無いような,ともなく一生懸命だけはやっているんだという世界になるとも限りません。物事の目標なり徹底さというのは出しにくい分野です。しかしだからこそいかに徹底性をすすめていくかということが重要かと思っております。
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【Y 自由さについて】
最後の3つ目です。先ほどの学校での枠をはめるというテーマと関係しますが、自由性,自由度の問題についてです。学校で集団生活をいとなむわけですが,いかに学校で個々の子どもに自由さというものを感じてもらえるか。子どもたちがいかに自由に発言したり行動したりできるか。自由性を発揮できる子供同士の関係,先生と子供との関係をつくるかということが、ひとつの切り口,視点ではないかと私は思います。
もし福井県の教育はどうも枠にはまった教育だということがあるとしたら,この問題に関係することだと思います。絶えず全体を優先させていないか,また画一的・一方的な教育になっていないか,形式にとらわれていないかということです。形式といいますと校則とか服装とか行事とか朝礼のみならず心の持ち方とかいろんなものがあります。
日本の芸事で我々は大体お手本をしっかり習って,その形が整うとそれでマスターしたと思ってしまうものが多いものです。さっき茶の本のことを申し上げましたが,これは茶道です。書道でもそういうところが多少あるかもしれない。また,剣道もそうかもしれません。このやり方は非常にやりやすいといえばやりやすいんですが,本当にその方法で物事は上達するかというとそうではないと思います。そして実際の奥儀はそうではないと思います。
松井やイチローが活躍しているのは,あれは型にはまった教育なりトレーニングを受けたかというと,そういうものからはずれているから,あのように活躍しているのかなと思います。皆さん方にゴルフをやられる人はあまりいないかもしれませんが,日経新聞の私の履歴書という欄にジャックニクラウスの話が出ておりました。ひとつ面白い話がありました。ニクラウスを教えてくれたコーチの中で良いコーチについてです。学校でいうと先生であり,先生からいうと校長先生かもしれません。ゴルフは正確にできるだけスイング数を少なくしてホールを上がっていくということが必要なんですが。
良いコーチというのは,ゴルフのスイングなりプレーをどのようにすべきかと教える人ではなくて,なぜそうなのかということを教えるコーチがゴルファーにとっては立派なコーチであると言っております。つまり,体の軸を揺らさないとか,体重はこちらへ移動するんだとか,打つ瞬間はこうだというような一種のポジション,メカニズムを教えるのではなくて、なぜ今ボールはこっちに飛んだのか,あなたはなぜ余分に打数を叩いてしまったのか,なぜパットが届かなかったのか,という何故を教えるコーチが良いのだと書いてありました。
私は今はゴルフはしませんが昔はやりました。フォームは一応いいのですがスコアはよくないのです。なぜかというと,ボールがあるその場所にクラブがちゃんと行かないということです。なぜをよく教えてもらっていないのです。ゴルフのプレーで一番いいのは,フォームが悪くてスコアがいい人だと私は思っております。まだ,進歩の余地があるからですね。学校の先生の場合も,形式やスタイルは非常にいいのだけれど,なかなか成果が上がらないのは困るわけです。むしろ逆でなければとならないと思います。
また,この自由の問題についてはもう1つ事柄があります。こういう形式のほかに,校長と先生,先生と生徒という必要以上な上下関係のようなものですね,みんな平等,みんな同じと思っていますけれど,意外と頭の中にそういうことがまだあるかもしれません。そうなりますと自由が十分に発揮できないかもしれないのです。
世界史を紐解きますと絶対主義時代とかその前は中世という時代がありました。我々が歴史を習いますと身分制があって上下関係,王様と領主がいて農民がいた。そこで住んでいた人がそういう身分を意識していたかというと,いろんな本を読みますと,全然意識していない,つまりそれは昔から自然にあったものだと思っているわけです。あるいはあるとも感じていないほど自然なことであると。意識もしない様なものが我々の世の中には多いのです。
ですから余程意識しないとそういうものが残りますし,またそういうものが解消されないと,それが先生方の形式的な権威と感じられてしまいます。先ほどの「2030年の姿」の中にはもう一つの言葉である「助言社会」があります。互いのアドバイスですね。対等の関係の中でこれは良くないとか,自分はこう思うと,お父さんこれは変だよ,いや君の言うことはおかしいんじゃないか,小さい子が言っているがもっともだとか,そういう考え方が助言社会です。「2030年の姿」では対等の関係でいろんな人たちが議論して物事を実行する社会を助言社会と言っております。
皆様方の小学校では,あるクラスを1年間教えて,子供たちから困ったこと,疑問に思ったことの質問というのが,子どもの側から出ることはありますか? …手が挙りませんからどうもあまりないようですね。これは助言社会ではないのです。子供たちはおよそ先生にものを尋ねる,質問することはないようですね。無意識に遠慮をしているかもしれません。あるいは教えられるだけのものと思い込んでいるのかもしれません。子どもが自然に疑問に思う事が解消されないと思います。私自身の経験でも,先生に質問をした経験はほとんどありません。小中高,ほとんど聞きっぱなしでした。積極的,自主的,チャレンジ的な人間はなかなかできないだろうと思います。要するに自由さということであります。
5,6分超過しましたが、思うところを申し上げました。以上で,私のお話を終わります。
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