福井県高等学校長協会知事講話 〜夢を語ってほしい〜 |
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このページは、平成17年8月9日(火)に福井ワシントンホテルで行われた福井県高等学校長協会での知事講話をまとめたものです。
T 夢を語る、夢を聞く X 百年先よりも今日
U 先人の気概 Y 核心への行動
V 学校はすべてか Z 刺激的な関係
W 教育の夢とは
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今日は校長先生のお集まりということで、各高等学校、また北陸高校、仁愛高校、福井高校、啓新高校、敦賀気比高校それぞれ私立学校からもお見えと伺っています。それぞれ共通する話になると思いますので、参考にしてほしいと思います。
全体を、「夢を語ってほしい」という題にいたしました。
【T 夢を語る、夢を聞く】
校長先生が子どもたちにお話しされる時に、ぜひ夢を語ってほしいと思います。また、子どもたちが夢を持てるようにたえず子どもと接してほしいと思いますし、子どもたちが夢を語っている場合はゆっくりと聞いてほしい、耳を傾けてほしいと思います。
最近読んだ本に次のような文章がありましたので紹介します。
「一体に日本には夢を説く人が少ない。これに耳を貸す人に至ってはさらに少ない。」
「夢無き国民は、与えられている現実の他には飛躍し得ぬ国民である。」
これは大正13年の頃に書かれた文章です。先日新幹線の陳情に行きました自民党本部の政調会長室に、歴代の自民党総裁の肖像写真がありました。最初に鳩山さんが掲げられてあって、2番目に出てくる人が石橋湛山です。総理大臣の就任直後に病気になられて、半年ぐらいしか政権を担当されなかったと思いますが、その石橋湛山の文章です。表題は『夢見る必要』ということです。この文章は教育の分野でもあるんですが、当時の日本の経済や政治について述べています。ウィルソンという人が第一次大戦後に国際連盟を提案しましたが、その前に当時駐英大使で軍人の加藤高明さんに若い官僚が提案をしたけれども、のちの総理大臣はあまり耳を傾けなかったようです。夢に耳を傾けるしかるべき人がいなかった例ですね。あのコロンブス、ニュートン、ダーウィン、アインシュタイン、これらは天才的な人たちです。一般の普通の人たちでも当然ですが、強烈な夢もしくは未来への意志、そういうものが歴史的に新しい発見や発明につながっていますし、一つ一つの国民あるいは一人の人生に大きな影響を与えると思います。
夢の少ない国民はいつも他国の、他人の後について真似事をする国民になってしまうというのが、石橋湛山の嘆きだったと私は思いました。これが校長先生方にとって、そのような観点で何かものを考えていただくきっかけになるといいと思いまして、申し上げました。
このことは、我々福井県民にも当てはまる事でありまして、先般1年間かけて「福井2030年の姿」というものを若い人たちが手作りでつくりました。その中に福井県民についてこんなふうに書いてあります。「積極的に人の前に出るよりも、一歩下がる。県外海外へ打って出るよりも、県内内輪の競争で満足するといった内向きの気質が強くありました。」2030年から今を見て、そう述べています。我々福井県民の気風ですね。これまでの福井人気質の殻を破り、積極的に外へ出る気概が必要だと書いてあります。心や行動が内へ向いていては大きな夢もままならないと、私は思います。この2030年の姿では、夢や希望を織り込みながらこのレポートを作りましたと、そう書いてあります。しかし、実際若い人たちのレポートを読んで、私もいろんな意見を言ったのですが、実は、もっともっと夢があってもよかったかな、まだまだ弱かったのではないかということを感じております。しかし、何とかして夢や未来を持とう、そのために何をしたらよいかという気持ちは、若い人なりに現れていたと思っております。
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【U 先人の気概】
さてこういうことを考えると、先輩達の心意気、気概にはいろいろ教えられます。先般、明治維新にかけて活躍した福井藩士、由利公正の五箇条の御誓文の草稿を県として取得しました。教育長その他ともいろいろ相談をしましたが、これは単に歴史上有名な文化財だから、という意味で購入したわけではありません。非常に厳しい大変動の時代にあって、近代日本の基本的な方向を、信念と希望を持って作っていった郷土の先人、その心意気・業績を福井の子どもたちに知ってほしい、見てほしいということで入手をしたものです。したがって単に図書館に飾っておくということではなく、学校でまずレプリカなどを見て学習し、そして本物も親子や友達同士で図書館で見てほしいと思い、そういう利用を考えれば高い買物ではないと思ったわけです。
我々政治に携わる者、また皆さんは教育という大きな分野に責任をもっておられますが、何としても福井県の子どもたちに誇り・自信・プライドを持ってほしい。その有る無しは子どもたちの将来の行動に、また今のいろいろな勉学やスポーツに大きく影響すると、私は思っております。校長先生にもそんな気持ちで子供たちに臨んでほしいと思うのです。
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【V 学校はすべてか】
さて学校の話に入りますが、今後、これからの学校とは一体何であろうかということを申し上げます。将来は学校が全てである、という時代ではないであろうという話です。非常に逆説的な響きがあるかもしれませんが、もう学校だけで完結的に生徒や児童に全てのことを教える、教授をする、そういう時代ではなくなったと思います。また子どもたちにとっても、学校が全てであるとか素晴らしい場所だとか、残念ながら、もう思ってもらえない時代だと思います。これは時代の変遷でありますので仕方がないと思いますが、先生がそういう認識を持っておらず、学校が特別な場所だという思い込みがあると、今日の実際の物事がうまくいかない、あるいは何故だろうとつい悩みがちになると思います。そういう認識は頭の片隅にお持ちいただくことが大事かと思います。
なぜそういうことが起こるかということです。ひとつには、学校の授業で先生からいろんな事を学ぶということは大事なのですが、学校以外に、良いことも悪いことも学ぶ機会が大変増えたということです。今、教科書問題などがありますけれども、教科書よりも分かりやすく、うまく作ってある読み物というのが世の中にはたくさん出ています。昔はそんなことはなかったのです。私の家なんかには子供の頃読み物というのは、教科書と新聞程度しかなかったものです。そういう時代と今の時代とは全然違います。また、テレビ、新聞、雑誌、マンガ、ビデオ、パソコン、多くの情報媒体がありますから、この授業中に何か皆でお勉強しましょうとか、ここで全部教えますよ、などという時代ではなくなったと思われます。子ども自身も学校以外でいろんな体験ができるんです。僕等の頃は修学旅行以外には県外へ行けなかったものです。今は先生よりもよく外国のことを知っている子どもがいるでしょう。
ただここで忘れてはならないことは、教育は他の産業分野のように自由自在に国民の需要に応じてサービスができる分野ではないということです。教育というのは基本的には商売にならない分野ですから、社会的な責任でなされるべき分野です。世の中には、直接に教育を目指すタイプのサービスというのは少なく、やはり教育を本来の目的にしているのは学校であり先生、皆さんです。したがって附随的にいろいろ使える資料や機会が子どもたちにも非常に増えている、そういうものが氾濫した結果、学校だけでは全てのことが解決できないという意味で私は申し上げたわけです。したがって、子どもの教育という観点から、学校と先生というシステムはやはり厳然たる存在意義があるのですから、努力してほしいと思いますが、昔のようにそれが決して全部ではないことを留意してほしいのです。
二つ目には、今、子どもたちの目からのお話を申し上げましたが、もう子どもたちにとって学校の方が家よりも楽しいとか快適だとかそんな時代ではないですね。自分の子供部屋のほうが涼しくていろんな道具が揃っているかも知れません。場合によっては自分の家の車の中のほうが快適かもしれないような時代だと思います。僕等が子供の頃はそんなことはありませんでした。学校の方が何でも立派にいろんなものがあったわけですが、残念ながら逆転している。トイレや手洗いもそうかもしれない。家の方がきっと立派だと思うのです。これは今後改善すべきところですね。高度成長以降、施設に関する質的な問題がないがしろにされていたと思います。学校の教室が不足するから作ろうとか、プールや屋内体育館を作ろうということで量的に充実させてきましたけれども、それだけに終わってしまい、学校施設の質的な問題が非常に弱くなっているように思います。先生方はこれから濃密な教育をすべきだから先生の数の不足のことはよくおっしゃっていますが、もちろんそれも大事なのですが、全体に物的・人的な学校の施設水準は低下していると思うのです。かつ子どもの風紀や通学路の安全とか、不十分な所がたくさんたくさん残ってしまったような感じがあります。これには長いあいだ国の様々な基準を守っていて、それで教育は十分だと思ってきたような点も一部にあると思うのです。これからは自分達でものを考えて福井の教育を行っていくことが重要と思います。
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【W 教育の夢とは】
次に教育の具体的な夢について考えてみたいと思います。先ほどの2030年の姿では、一生涯自ら学ぶ時代、つまり「一生自学の時代」になると描いております。その主な考え方の中に、一つは子ども中心の社会にしなければならないということがレポートに書いてあります。子どもは大人になるための過渡的な存在ではなくて、まさにその瞬間一人の人間として存在しているということです。親の都合にあわせて子どもを過保護に育てたりすることは避けなければならないということです。子どもの目線に立ってのアドバイスが必要なこと、更には大人たちも、子どもたちの意見や言葉を真剣に受け止めてお互いに話合うことが必要です。親が子どもに助言するのは当然ですが、子どもも大人に言葉遣いはともかく助言をしてもいい。そういう人間関係を築かないと一方的に過保護になったり、叱ったり、ひっぱたいたりすることになる。互いに議論をしたり助け合ったりする、そういう言葉が成り立たないことが今の社会の問題だという問題意識であり、「助言社会」に向かっていこうと言っています。そして専門性というのが今後強く求められますので、子どもの早い時期から備えをする必要がある。今は中学校、高校、大学、就職、結婚、子育て…、絶えず先へ先へと目が行ってしまい、まさに今の子供のその瞬間に目が行っていないという問題があります。皆さんの応援をいただいて知事になって2年が過ぎましたが、政治では有権者と手を握る瞬間というのがあるんですけども、たくさんいらっしゃって一定の時間で皆さんと握手しなければならないと思うと、目が次の人に行く。それをよく叱られたり注意されたりしました。どなたの顔もしっかり見ていない、さて誰と握手したんだろう、どなたともしていないような、絶えず目が瞬間瞬間ずれてしまっていることを実感します。これは多少例えが違うかもしれませんが、教育も絶えずその瞬間を大事にしなければならないのに絶えず目が次のところに行きますと、いつも子どものことを見ていない、今子どもの大事な事を見逃している、そういう教育になるんじゃないかと、これはレポートにはそんなことは書いてありませんが、感じましたので申し上げます。
学校のイメージとしては、「学校は最も高い技術を持った人材と最新の設備を有する教育の場として、専門能力の高い教員が家庭や地域の人たちと協力を得ながら、子どもたち一人ひとりの能力や特技を伸ばす多様な選択肢を提供する場である。」「教育を担う主体も、従来の公立また私立に加え、株式会社、NPO、教育団体、退職教員によるボランティア活動などに多様化していく。」と、こんなふうにレポートに書いてあります。ただこれは25年後のことを言いたいのではなくて、まさに今これからどうしていくかというために書いてあると思っていただきたいんです。
教育というのは農業と非常に似た点があると思いますね。1年経つと子どもたちは必ず1歳年をとりますし先生も1歳年を取る。子どもたちの年齢は毎年1歳ずつ差が開いていくわけでありまして、その瞬間を逃すともう二度とその子どもの教育はできないし、勝手に大きくなってしまいます。そういう問題がありますので、子どもを中心にした子どもの自立、あるいは自学を目指すべきと書いてあります。皆さんがそれぞれの学校で教育する場合にどんなお気持ちで臨んでおられるか、少し参考にしていただければありがたいし、もうすでにそんなことを思っていただいているのかもしれない、というように思います。
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【X 百年先よりも今日】
それから今2030年の姿ということを申し上げましたが、100年先よりも今、今日の問題にアタックをしてほしいというお話です。よく私たちも県議会で、教育は国家100年の大計であると答弁することがあります。教育長もそんなことを言っておられるかもしれない。皆さんも教育について大事だという意味を込めてそう言われるかもしれません。この重要かつ長い期間を要する一大事業と解されている教育について、ひとつ感想を申し上げたいと思います。私自身もこの100年の大計という非常に美しい象徴的な言葉に力を得てこういう言い方をするわけです。しかし教育は直ぐには効果が出ない、また長い目で見なきゃならないというだけの考えで教育や教育論を終わらせてはならないわけです。日々の教育がおろそかになっては100年の大計も10年の大計もないのです。
皆さん方は高等学校の校長ですから、校庭には二宮尊徳、薪を背負って本を読んでおられる人、ああいう像はないんですよね。今でもある小学校があります。それから学校はないんだけれども、廃校ですね、学校がなくなって地元の集落の何か集会場になっているような所の庭に行きますと二宮金次郎、尊徳の銅像がちゃんと残っているところがありまして、私は時々近づいて行って、この銅像はどちら向きだとかどういう顔つきをしているとか、眺めることがあるんです。だいたい東向きが多いんですけれども、時々全然違う方向を向いている銅像もあったりします。これは余談です。我々は常識的に、単に薪を背負って真面目に克苦勉励した人だと思っています。そういう人ではないんですよ。政治学あるいは経営に深い認識を示しておられた人です。
この人が次のように言っております。「我等はまず今日の仕事を良くするの要がある。将来の計画、明日の計画と語ることではなく、今日、今日の実行である。しかしてこれは個人についてのことのみでなく、国家についても同様である。」ということで、100年の大計あるいは10年先、さっきは25年後先の姿と言いましたが、もちろんそういうことは大事なのですが、問題は今日、明日、今年をいかに行動をするかということを重視した人です。
別のところに全然違う話もあるんです。ある人の家族が病気になって、田んぼや畑が叢になった。ようやく家族も治ったので、草刈をしてものを植えないといけない。どんな草の刈り方をするかということです。田んぼが2枚ありますと、片方の田んぼは草がぼうぼうである、片方の田んぼは草がちょっとだけある。皆さんはどっちから草を刈りますか。二宮金次郎は常識に反して草の短いところから刈るべきだという説なんです。まず草の短いところから刈って、そこにものを植えて、そして植えた後、この長いほうのところにやおら手をつけるべきである。最初から長い方をやりますとそれに時間が取られ力尽きて、もう片方のましな方の田んぼや畑の草まで伸ばしてしまう。結局両方どっち取らずになる。一例でありますが、教育においてもまさにしかりでして、夢を持ちながらも、あるいは100年の大計であるけれでも、まさに現実に即して今をいかに学校で校長先生や先生方が何をなすかということかと思います。
文科省も従来はいろいろなことを言ってきました。こう変わったからこうしろとか、5年間でこれをやれとか言ったりしますし。しかし、皆さん校長は自らの考えに従って、今日明日の小さいこと、これは本当は大きなことなんですが、これを実行してほしいんです。世の中の動きを見ますと、国家の大計が小事を動かしているのではなくて、小さな実行が大きな事業を動かすと私は思っております。校長は他からのいろんな指示いろんなことをお聞きになるかもしれません。しかし決してそんなものを待つことなく、小さいことでもよいですから、自らの学校から福井県の教育全体を変えるんだという、そういう気概を持って目の前のことから実行してほしいと思っております。
先ほどの25年後の姿も、まさに四半世紀後の将来の図柄を描くことが目的ではなく、その狙いは今何を直し、何に手をつけるべきかを示唆するためのものでなければならないと、考えるものであります。
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【Y 核心への行動を】
次に申し上げることは行動ですね。スピードをあげて物事の核心、本体にアタックしなければならないということです。これは校長先生のみならず私自身もそうですし、あらゆる局面でそうだと思います。さっき二宮尊徳翁のお話をしましたが、「3年先にどうやるとか、5年先にこうしたいという計画を言った人の中で、まともに1年以内のことをやった人は見たことがない」というふうにきつく述べています。そういう人を見たことがないという言い方は強すぎるかもしれませんが、やはり現実の行動というのを重視しなければならないという説ですし、私もそれに近い考えであります。
以上の事から言えることは、校長先生は夢を語ったり聞いたりしてほしいと思いますし、行動する人であってほしいんです。教訓とか、子どもたちにああしろ、こうしろとか、そんなことを言うだけの人になってほしくないというのが小さい頃からの実感でもあります。校長先生の話というのはだいたい何ということはないんです。だから、そんなところにあまり神経を使わないでほしいのです。来週の朝礼にどんないい話をしたいとか、そんなことに大きな関心を持ってほしくないと私は思います。校長先生がちゃんと実行されれば、どんな話でもよい話になると思っております。学校においてできるだけ行事、儀式的なものは少なくする、訓辞や教訓は手短くということがこれからの学校において大事だと思います。この点は、セレモニーだけではないのです。授業でもそうです。スポーツのいろんな訓練でもそうですが、1時間の中で、教訓、講釈、こういうものを少なくして、できるだけ時間を有効に使って、子ども中心、子ども本位の学校運営を実行することが大事だと私は思っております。これは私の考えですから、皆さんもいろいろお考えがあると思いますが、そういうことをやってほしいと思います。子どもという言葉を使って一日学校運営をしてください。先生とか校長先生とか学校、といったいつも何回も用いる言葉を使わないで、子どもという言葉だけで一日会話をして、どのような事が起こるのかためしてみたらどうでしょうか。そんなふうに思います。
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【Z 刺激的な関係】
最後に、ちょうど夏休みですが、皆さんはラジオを聞かれることはありますか。今、午前中どんな放送がされていると思いますか。NHKの第一ですが、ラジオもたまには聞いてください。科学電話相談という番組があります。子どもたちが、何億年か経つと地球は太陽に飲み込まれるのですかとか、カブトムシの育て方はどうかとか、そういう子供たちの質問に専門家が答える番組です。9時から12時までやっておりまして、いろんな質問が出て、実に子どもたちはいろんなことを思うんだなあと思います。そして、大人の専門家の先生に堂々とした対話といいますか、感心するようなことを言っているのを私は車の中で時々聞いております。この前こんなことがありました。鳩は餌を食べるときに首を曲げますが、なぜ曲げるんですかという質問を子どもがしていました。専門家がどう答えたかと言いますと、「君は目をもっているだろう。君は黒い目と白い目があるけれども、鳩はそういうのがないんです。つまり目玉を自分で動かせないから、白目がない。人間は、目玉をこうやって下げて下を見られるけれど、それができないので首ごと曲げるのです。」ということを話しておりました。
私はその質問の中身のことを申し上げたいのではなくて、その番組を聞くんですが、福井県の子どもの質問が非常に少ないということを申し上げたいのです。ほとんどいません。皆さん、一度そういうことを考えてほしいと思います。先ほどの「内向き」、内輪で満足しているということかもしれないし、あるいは、福井県は学校がやっているから、学校だけで勉強が終わって、他の機会はつくらないということかもしれません。福井の教育、内向きですね。そういうことを私はふと感じました。
もう一つ感じたのは、子どもたちにとって楽しく刺激的な学校や先生であってほしいということです。先ほどの鳩の例で言えば、「それは鳩だから当然首を曲げるんだろう」という答えをする先生であってほしくないわけです。あらゆる問題に対していろいろな勉強をし関心を持ち、面白い先生であり面白い授業をし、また、そのことをちゃんと見ている面白い校長であってほしいんです。そうでないと子どもたちにとって学校が面白くないと思います。教訓的な言葉を言われても子どもたちが感心するわけでもない。そういう学校環境というものについて、ラジオを聞きながら思ったわけです。つまり、子どもと先生や学校との刺激的な関係をいろんな工夫をしてやっていただいて、先生の教育の技術や才能を十分更に発揮できる、これが教育の始まりであり終わりであると思うわけです。
以上少し長くなりましたが、私の話を終わります。
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