岡倉天心と福井県とのつながり
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日本美術院時代【苦渋の美術院時代】
  「苦渋の美術院時代」(1898〜1903) 

「一種の精神遺伝病を有し」「非常なる惨忍の性を顕し」等の天心を誹謗中傷する文章で埋まった怪文書や新聞記事により、大きく名誉を傷つけられた天心は美術学校長を辞任した。
天心に殉じて学校教授を辞任するものが、橋本雅邦、下村観山、寺崎広業、横山大観、菱田春草など17名の多きに及んだ。明治31年天心36歳の時である。
美術院開所式 
【美術院開所式】

天心は自分に殉じて辞職した者を中心に「日本美術院」創設を計画、同年10月15日には東京谷中で「日本美術院」の開所式が挙行された。

新しい日本画の創造を目指したもので、同時に開催の「第1回展覧会」には大観、春草、観山、玉堂らが出品、中でも師天心の心の中を描いたという大観の「屈原」が話題を呼んだ。

美術院は地方展の開催を積極的に展開し、地方画壇に影響を与えた。この時期、天心は日本画に西洋画法を加味した没線描法を説き、大観、春草らは光や空気の表現を試みるが、これが線を無くした化け物のような「朦朧体(もうろうたい)」と激しい批判を受け、美術院の苦境時代が続く。
特に住居を茨城県五浦に移した時代は極貧期が続いたが、その中から大観は鋭い構図で新しい墨の筆描を再生、春草は写実的な色彩点描を使って「落葉」を世に出した。

天心の「空気を描け」「もっと明快に」の要求に生命を賭けて精進究明した美術院の幾多の俊才は、後に新しい日本画の創造主となり、天心没後一時休止した美術院も大観の手で再興し、今年は「再興美術院91回」を数えるに至っている。
五浦美術館
【五浦の日本美術院の研究室手前から木村武山、菱田春草、横山大観、下村観山】