岡倉天心と福井県とのつながり
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青年期【充実の青年期】
「充実の青年期」(1871〜1879)
岡倉天心青年期
【青年期の天心】

明治10年(1877年)の学制改革により、東京大学が誕生した。
天心は文学部に籍を置き、得意の英語を活かして英文学教室に親しんだ。
天心は英米の小説を乱読、ヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」を高く評価し、エドカー・アラン・ポーに心酔した。

一方、漢語は森春濤(もりしゅんとう 明治初めの日本を代表する詩人)、琴曲は加藤桜老(おうろう)に学ぶほか、明治時代を代表する女流南画家の代表奥原晴湖の門を叩き、さらに、正阿弥(しょうあみ)について茶道に親しむなど、西洋のみならず、東洋文化にも親しむ多感な学生生活を送っている。

卒業の前年の明治11年(1878年)、東京大学のお雇い外国人教師として招かれたアーネスト・フェノロサと天心が知り合ったことは、日本文化史上特筆される。

フェノロサは、生来美術に興味があったのだろう。来日前にフィラデルフィアで開催された米国建国百年記念博覧会では、連日会場内の美術館に足を運び、絵画の描法、色調について詳細にノートを取り「今後は美術の研究に努める」と記したという。
ハーバード大学を首席で卒業し、哲学の教授として来日した彼は日本画を見て驚嘆した。花鳥画の細密な画法と、山水画の神秘性に心を奪われて、大学付近の美術商を軒並み歩くこととなる。
その際に、通訳として天心を伴ったことから、天心も次第に美術に関心を持つようになった。当初は偽物を随分と買わされたようで、心配した有志から、名家の蔵品を見る機会を与えられて「審美眼」(美を識別する能力)を磨いた。

西洋・東洋を問わず文学に親しみ、自分の生涯の仕事につながるフェノロサとの出会いがあるなど、天心にとっては実に充実した青年期であった。