岡倉天心と福井県とのつながり
 天心の生い立ち
 岡倉天心とは
 関連サイトの紹介
 
 
  「輝く美術学校長時代」(1880〜1897)

馬にまたがる天心写真
【東京美術学校校長の制
服を着て愛馬「若草」にま
たがる天心】


明治13年(1880年)、東京大学を第一期生として卒業した天心は、文部省に入省し音楽取調掛に配属され御用掛に任命された。
月給四十五円の高給取りとなったが、上司との折り合いが悪かったため、1年後には内記課勤務となり、主に美術関係を担当することとなった。 
フェノロサとの関係は卒業後もいよいよ深まり、明治17年には、秘仏中の秘仏とされ、長期間にわたって開かれることのなかった奈良法隆寺夢殿の救世観音像を開扉、千数百年の眠りを破った。天心はそのときの感動を「一生の最快事であった」と記している。
明治19年美術取調委員としてフェノロサとともに約9カ月間の日程で欧米に出張、帰国後文部省告示により、東京美術学校主幹となり、明治23年(1890年)には若干28歳で東京美術学校校長となった。新しい日本画の創造という独自の理想を秘めての就任であった。

教授陣には筆頭教授に橋本雅邦、福井県関係では山田鬼斎、島田雪湖、沼田一雅らがいた。校長時代の天心は生徒に古画の線描模写を徹底させて、基本を叩き込んだほか、博物館行政でも理事、美術部長として活躍した。

京都・奈良各県を視察、古美術調査にあたる一方で歌舞伎の名優市川団十郎、尾上菊五郎らを委員として「日本演芸協会」を結成し、日本古来の演劇の振興も図った。

 また、現在も続いている美術「国華」を発刊するなど、その活躍は目を見張るものがある。

校長時代に教壇に立って講義した「日本美術史」は、時代区分された我が国初の美術史として高く評価される中、やがて大観、春草など第一期生が巣立っていく。