岡倉天心生誕150周年記念
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かつてあり 天心の郷家 志比口に
 
「か」 かつてあり 天心の郷家 志比口に

岡倉家は代々、福井城下のはずれ、志比口筏町(しびぐちいかだまち 現在の福井市宝永1丁目付近)に住んでいた。この辺りは、永平寺町、勝山市に至る志比道と呼ばれた勝山街道の入口にあたることから志比口といわれ、現在もその地名は残っている。

現在は整備された商業地の風景だが、かつては福井城を中心に塀がめぐらされ、武士達が往来した場所であった。

かつて岡倉家が存在した場所が判明したのは昭和26年7月のこと。元教師で当時、福井市公民館に勤めていた清水くに氏の3ヶ月にわたる調査の成果であった。
清水氏は、福井藩主であった松平家の事務所や岡倉家の菩提寺、縁戚を方々訪ね歩くうち、縁戚関係にある増田千代栄夫人の父谷口宇右衛門氏に出会う。
「岡倉の話か、それなら予の若かりし頃、それぞれの師匠について種々の勉強をした。その中の1つ花の師匠林包武氏の近くに岡倉覚右衛門といふ家があったことを覚えている。後に東京へ移転してその子が美術学校長になったといふことを後に聞いた」「その場所は志比口の袋小路の中の右側の家であった」

その袋小路にあたる一帯を一軒一軒訪ね歩いていたところ、偶然にも20年前の教え子の家に行き着き、何とその家に当時からさかのぼること50年ほど前の絵図があったのである。そこには3ヶ月間捜し求めていた袋小路がはっきりと書かれていた。この絵図を谷口宇右衛門氏に確認いただき、ついに天心の郷家が判明したのである。
両親の住んでいた居住地跡には、「岡倉天心生家の跡」と記した御影石の石碑(昭和27年建立)を見ることができる。
碑には次のように記されている。「明治美術界の偉大な先覚者として、東洋美術の眞髄を世界に紹介することに努めた天心岡倉覚三の郷家、即ち父岡倉覚右ェ門の住家の跡である。天心は父の離藩後、文久二年横浜で生れたが、父祖の地福井を愛し、常に、自分は福井人である、自分の郷土は福井である、と称して在世中いくたびか福井に来遊したりした」
石碑の写真
【石碑】
福井で生活したことのなかった天心であるが、記述にあるとおり、幾度か福井県を訪問している。

例えば、明治39年4月下旬、ボストン美術館に所蔵する美術品を購入するため京都・奈良に向かう途中、福井県に立ち寄った。その際、機織業を営む異母姉の坪田百やその夫の均を訪問し、旧交を温めた。また、天心が坪田家を最後に訪問したのが、亡くなる3年前の明治43年。坪田夫妻の次子・谷江長氏によると、夜が更けるまで一緒に飲み明かしたという。