岡倉天心生誕150周年記念
福井県と岡倉天心
福井が生んだ国際人
 岡倉天心と福井県とのつながり
 天心の生い立ち
 岡倉天心とは
 関連サイトの紹介
 
 
羅針盤 心の向きは 福井の地
「ら」羅針盤 心の向きは 福井の地
〜 天心の心のふるさとは福井 〜


天心は父の覚右衛門が横浜に「石川屋」を開業して、2年後の文久2年(1862年)に誕生した。

福井で生活したことはないものの、福井への思いをしのばせるエピソードが天心には数多くある。

例えば、横浜生まれでありながら、自筆履歴書には「旧福井藩士」と記載し、知人(高橋太華(たいか))に宛てた書簡では「郷里福井」と記載した。
また、福井県から上京して学業に励む学生らの集まりである「福井学生懇親会」に努めて顔を出し、彼らを励ました。
さらに、中国・日本部部長を務めたボストン美術館に提出した履歴書にも「越前生まれ」と記載したため、天心の死後、ボストン美術館報に掲載された追悼文は「岡倉覚三(天心の本名)は越前の藩都福井に生まれた」との書き出しで始まっており、また、天心の訃報を紹介した新聞においても「福井の天心が亡くなった」と報じられている。

天心が福井を自分のふるさとのように感じていたのは、幼い頃の影響が大きいと思われる。母の「この」が商売に忙しく、天心はもっぱら乳母つねに育てられた。つねは橋本左内の遠縁にあたり、左内のことを誇りとし、幼い天心に福井と左内のことを繰り返し聞かせたといわれている。
そのため、後に天心は「もしかしたら、自分は橋本左内の隠し子だったのではあるまいか」と本気で考えたほどだった。
また、酒を飲み、興いたると橋本左内が作った小唄「燈火のもとは菜種の油なり、蝶がこがれて会いに来る」を美声で歌ったという。

福井と福井藩士である橋本左内の話を繰り返し聞いて育った天心にとって、福井はまさに心の故郷となっていったのである。