岡倉天心生誕150周年記念
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進取りの気性に富んだ福井人
「しん」 進取の 気性に富んだ 福井人
~ 天心に関連した福井ゆかりの人物 ~

 
山田鬼斎

やまだきさい 1864~1901

三国町出身の彫刻家。
三国の仏師鬼頭家に生まれ19歳の時に同町玉井の山田家の養子となる。
楠公
【楠公】
鬼斎の実母と天心の母「この」とは三国時代の裁縫友達で仲がよかったこともあり、天心を頼って22歳のときに上京し、さらに腕を磨こうとした。
東京の名工を訪ねて教えを受けるうち、25歳で天心の妹・蝶子(てふ)と結婚。

明治23年第3回内国勧業博に出品した「大塔宮乗馬像」で一躍注目を浴びた。皇居前の「楠公」銅像製作にも製作者の1人として携わり、甲冑その他身体部分を担当。

32歳のときに東京美術学校の彫刻科教授となり、木彫技術を指導。
 


おだとくのう 1860~1911

福井県坂井郡波寄出身で福井市川西真宗大谷派の寺に生まれ、福井師範学校に学んだ。明治22年シャムに遊学して南方仏教に精通したが、上司と意見を異にしたため、宗則により真宗大谷派の僧籍を剥奪された。

天心は日本の形骸化した仏教には批判的で、東洋美術の立場から仏教の正しい姿を取り戻すためにインドの思想を取り込むべきだと主張していた。
その天心が、インドで宗教家のヴィヴェカーナンダの高潔な人格に触れ、異色の宗教家であった織田に直ちにインドを訪れるよう手紙を出したため、織田は明治35年にインドに渡り2ヶ月滞在することになる。そして、天心とともにインドや中国の宗教家を招いて日本で「東洋宗教大会」を開催する計画を立案したのである。

帰国後に大乗非仏説論(上座部仏教の立場から、大乗経典は釈尊の説いた教えではなく、捏造であると非難した説)を唱え、独力で「仏教大辞典」を編集した。



おかふほう 1869~1940

福井県出身で東京美術学校の第一期生。
天心の甥である岡倉秋水らとともに狩野芳崖門下の四天王と呼ばれた。
天心の要請で高等師範学校に図画教員として派遣され、毛筆画用の教科書を制作するなど、日本画教育の普及に努め、天心の理想の実現に貢献。

沼田一雅

ぬまたいちが 1873~1954

福井市木田町出身の彫刻家
東京美術学校助教授。のちフランスに留学してロダンに師事、昭和3年にはフランスの最高勲章レジョン・ド・ヌール(ナポレオン1世により制定されたフランスの勲章)を贈られ、昭和29年には日本芸術院恩賜賞を受けた。

島田雪湖

しまだせっこ 1865~1912

福井藩士島田雪谷の長男。幼名範九郎、のち甫(はじめ)と改める。父雪谷から円山四条派を学んで雪湖と号した。1878年(明治11)、京都の村田香谷、池田雲樵に就き文人画を学ぶが、その流派の衰退を見て2年後に福井に戻り、再び円山四条派を修める。1882年(明治15)第1回内国絵画共進会、1884年(明治17)第2回内国絵画共進会に出品。1893年(明治26)東京に上京し、日本教育新聞の挿絵の仕事や、久保田米僊の紹介で米国人ヘンリー・P・ブイに日本画を教える。ブイによってスタンフォード大学初代総長デイビッド・スター・ジョーダンの知遇を得、スミソニアン博物館の魚鳥挿絵の仕事に携わる。米国海洋調査船アルバトロス号に挿絵画家として乗船、日本、ハワイ、フィリピン、アメリカなどの海洋生物や鳥の精密な写生をする一方で、当時排日の気運が高まりつつあった西海岸で、日本理解のためにブイが開催した日本画や日本美術についての講演や展覧会に協力した。1912年(明治45)、日本への帰国の船中、ハワイにて病没する。