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平成17年度第2回テ−マ展 「岩佐又兵衛−江戸の異彩画家−」

 

 平成17年度第2回所蔵品によるテ−マ展は、福井ゆかりの絵師岩佐又兵衛と岩佐派の作品をご紹介します。

 

1 名 称            平成17年度第2回所蔵品によるテ−マ展 

岩佐又兵衛−江戸の異彩画家−

 

2 会 期             平成1764日(土)71日(金)

 

3 会 場             福井県立美術館

 

4 開館時間        午前9時〜午後5時(入場は午後430分まで)

 

5 休館日            613日(月)、20日(月)

 

6 観覧料            一般・大学生  100円 (団体30名以上は2割引)

                            高校生以下・70歳以上・障害者手帳等をお持ちの方は無料

 

7 主な出品作品   
                               岩佐又兵衛             「ほう居士図」(重要美術品)
                               岩佐又兵衛             「三十六歌仙図」(重要美術品)
                               岩佐又兵衛             「和漢故事説話図」
                               岩佐勝重 「群鶴図屏風」(旧福井城本丸御殿襖絵)ほか

 

*期間中毎週土曜日午後2時〜4時まで、当館解説ボランティアによる作品解説を行います。

 (観覧料が必要となります)

 

 

 

岩佐又兵衛−江戸の異彩画家−

 

 豊臣氏が滅び、徳川氏による政権が確立した17世紀前半、当時その名を知られた福井ゆかりの絵師がいました。その名は岩佐又兵衛勝以(いわさまたべえかつもち)です。

 

 岩佐又兵衛は数ある江戸時代の絵師の中でも、数奇な生い立ちと個性的ともいえる画風で近年とみに評価が高い人物です。天正6年(1578)、戦国武将荒木村重の子として生まれたといわれ、父村重が主君織田信長に反逆したため一族は滅ぼされてしまいます。又兵衛は奇跡的にこれを逃れて浄土真宗の本願寺教団に匿われて京都で成長しました。そして母方の姓「岩佐」を名乗り、武将の子として生まれながらも、絵師として生きるという生涯を送ることになるのです。

 又兵衛が誰に絵を学び、どの様な作品を描いたのか、京都時代の又兵衛についてはよく分かっていません。しかしすでに一流の絵師として活躍していたことであろうは、いくつかの又兵衛作と推定される作品によって想像できます。

 

 ところが元和2年(1616)頃、又兵衛は突然として越前北之庄(現福井市)に移り住みます。恵まれた京の地を離れて、雪深い越前に移った理由は何だったのでしょうか。これは時の二代福井藩主・松平忠直の招きに応じたとする見方が有力です。そして主に福井藩からの注文作品を、工房の多くの弟子を率いて制作していたものと考えられます。又兵衛は約20年間を福井の地で過ごしましたが、この期間は又兵衛が最も精力的に活動し、数多くの優れた作品を生み出した時代でした。もと福井の豪商金屋家に伝えられた12図からなる屏風絵の一点で、竹篭を編んで暮らした中国の人物ほう居士とその妻を描いた「ほう居士図」や「三十六歌仙図」、そして日本や中国の物語・故事を題材とした「和漢故事説話図」などは、いずれもこの時代を代表する作品の一つです。

 福井時代の優れた作品によって又兵衛の名声はいよいよ高まり、寛永14年(1637)には妻子を残して江戸へと旅立ちます。江戸では幕府や大名から依頼された絵画制作で多忙な日々を過ごしますが、慶安3年(1650)、福井の土を踏むことなく江戸で73歳の生涯を閉じました。

 

 又兵衛の作品の特色は、当時の様々な流派の画風を取り入れたもので、なかでも人物画を得意としました。「豊頬長頤」(ほうきょうちょうい)とよばれる、ふっくらした頬や下顎の長い顔の形、指先をそらせ動きのある体の表現を特徴とし、画題も歌仙図や日本・中国の古典を基にした伝統的なものから、当時の人々の生活を描いた風俗画までと幅広いものがあります。特に風俗画の分野では生前から「浮世又兵衛」(うきよまたべえ)の異名をとるほど有名で、後世には浮世絵の元祖として半ば伝説化して語り伝えられました。そして彼の画風は多くの追随者を生み、ついには岩佐派という一流派を形成するほどになったのです。

 

 又兵衛没後、その画風を受け継いで岩佐派の2代目となったのは息子の源兵衛勝重(げんべえかつしげ)です。勝重も又兵衛以上にその生涯や作品について判っていませんが、又兵衛の江戸出府に際して福井の工房を引き継いでから、本格的な活動が始まったと考えられています。また勝重は福井藩の御用絵師となり、寛文111671)年に再建された福井城本丸殿の襖絵制作に絵筆をふるっています。「群鶴図屏風」や「鶴・平家物語図屏風」はこの時に描かれた福井城鶴之間の襖絵であったもので、勝重の力量の確かさを知ることができます。

 さらに勝重没後は子の陽雲以重(よううんもちしげ)がその跡を継ぎ、引き続き藩の御用絵師となりました。しかし貞享3年(1686)年、福井藩の藩領が半減されたため、陽雲も御用絵師の職を解かれ、再び絵師の道を歩むことはなかったようです。

 

 こうして岩佐家当主を頂点とした岩佐派の活動は、わずか3代にして終止符が打たれてしまいました。しかし又兵衛によって確立された画風は、又兵衛の弟子やその模倣者によって又兵衛の名とともに受け継がれ、広く一般に親しまれていったのです。又兵衛様式を残す作品がいまなお数多く残されていることからも、又兵衛人気のすごさがうかがえます。その意味で江戸期の絵画界における、又兵衛及び岩佐派の影響と存在は決して小さいものではなかったということができるでしょう。