岡倉天心コーナー
「岡倉天心 ―新しい日本美術をめざして―」
このたび、国民文化祭を契機に「岡倉天心」コーナーを設置し、岡倉天心と彼の指導のもと新しい日本画を創った日本画家たちの作品や資料を展示します。
1 名 称 岡倉天心 ―新しい日本美術をめざして―
2 設置日 平成17年10月22日(土)〜
3 場 所 福井県立美術館
常設展示室1コーナー
4 概 要 1 パネル等による天心の生涯や功績の紹介。
2 天心ゆかりの作家の作品・資料展示。
・狩野芳崖 「伏龍羅漢図」 明治18年
・横山大観 「杜鵑」 明治37年
・菱田春草 「落葉」 明治42年
5 その他 下記の日程にて当館解説ボランティアによる展示解説を行います。
10/22(土)、23(日)、29(土)、30(日)、11/3(木) 午後1時30分〜3時30分
●岡倉天心(おかくら てんしん)
明治の美術指導者、美術行政家。幼名角蔵のち覚三。越前福井藩出身で横浜で貿易商を営む岡倉勘右衛門の次男として、文久2年(1862)12月26日に生まれ、大正2年(1913)9月2日新潟県赤倉で没。明治13年(1880)東京大学卒業、文部省入りし、美術教育や古美術保存などの美術行政に着手。またフェノロサ主宰の鑑画会に加わり、新たな日本画の創造を提唱した。19年(86)にはフェノロサらと欧米視察、23年(90)には東京美術学校校長となり、大観、春草らに大きな影響を与える。その間臨時全国宝物取調局委員、帝国博物館理事兼美術部長や美術雑誌『国華』を創刊するなどした。しかし31年(98)排斥運動により美術学校長を辞職、これに殉じた雅邦、大観等と日本美術院を創設。その後インド、米国各国を巡り、38年(1905)ボストン美術館東洋部顧問のち部長となる。その傍ら『東洋の理想』『日本の覚醒』『茶の本』などを執筆、欧米における東洋美術の普及理解につとめるとともに、日本における美術行政、教育、思想に大きく貢献した。
●天心と福井
天心と福井の関係は両親に始まります。両親はともに福井出身で、父岡倉勘右衛門は福井藩士として、横浜で藩の特産品などを扱う貿易商石川屋を営んでいました。その次男として横浜で生まれたのが天心です。
天心が福井を意識するようになったのは、もちろん両親に拠る所が大きいと思われますが、それ以上に乳母つね女の存在が考えられます。彼女は幕末の志士で福井藩士であった橋本左内の身内といわれ、幼い天心に福井と左内のことを繰り返し聞かせたと伝えられています。そのためか自身は横浜生まれでありながら、「旧福井藩士」(自筆履歴書)や「郷里福井」(明治39年書簡)と記しており、天心の福井に対する想いには深いものがあったようです。
また三国出身の彫刻家で、天心が校長を務めた東京美術学校彫刻科の教授であった山田鬼斎(1864〜1901)には、天心の妹蝶子(てふ)が嫁いでいます。さらには東京美術学校の第一期生で、狩野芳崖門下の四天王と呼ばれた福井出身の岡不崩(1869〜1940)と天心の甥岡倉秋水(1868〜?)の二人は、天心の要請で高等師範学校に図画教員として派遣、毛筆画用教科書を制作するなど日本画教育の普及に努めており、福井の地と人がさまざまな形で天心の理想の実現に貢献したといえます。
岡倉天心略年譜
1862(文久2)年 1歳 12月26日、福井藩士岡倉勘右衛門の次男として横浜に生まれる。幼名角蔵のち覚三。
1870(明治3)年 9歳 母この没(37歳)。
1875(明治8)年 14歳 東京開成学校(のち東京大学と改称)に入学。
1878(明治11)年 17歳 フェノロサ、東京大学のお雇い教師として来日、3年在学の天心と出会う。
1880(明治13)年 19歳 東京大学卒業後、文部省音楽取調掛に勤務。
1884(明治17)年 23歳 フェノロサ等の組織した鑑画会に参加。文部省による関西地方古寺社調査にフェノロサ等と参加。
文部省の図画教育調査会の委員となる。
1885(明治18)年 24歳 フェノロサ、狩野芳崖等とともに、美術学校設立のための図画取調掛の委員となる。
1886(明治19)年 25歳 美術取調委員としてフェノロサと欧米視察に向かう。
1889(明治22)年 28歳 帝国博物館の理事および美術部長に任命される。
美術雑誌『國華』を創刊する。
1890(明治23)年 29歳 東京美術学校校長となる。
1896(明治29)年 35歳 古寺社保存会の委員に任命される。
父勘右衛門没(77歳)。
1898(明治31)年 37歳 東京美術学校長を辞職し、行動を共にした橋本雅邦・横山大観らと谷中に日本美術院を創設。
1901(明治34)年 40歳 インド旅行に出発。
1903(明治36)年 42歳 『The ldeals of the East』(東洋の理想)をロンドンで出版。
1904(明治37)年 43歳 大観、春草、六角紫水を伴い渡米。
『The
Awakening of Japan』(日本の覚醒)をニュ−ヨ−クで出版。
1905(明治38)年 44歳 4月12日福井に向かい下旬まで滞在する。
ボストン美術館中国・日本部顧問となる。
1906(明治39)年 45歳 『The Book of Tea』(茶の本)をニュ−ヨ−クで出版。
日本美術院を茨城県五浦に移転。
1910(明治43)年 49歳 ボストン美術館中国・日本部長となる。
1913(大正2)年 52歳 9月2日、静養先の新潟県赤倉にて没。
(年齢は数え年表記)