狩野芳崖と四天王展

構成

【第1章】 狩野芳崖と狩野派の画家たち─雅邦、立嶽、友信―
  室町時代から400年続いた日本最大の絵師集団である狩野派。狩野芳崖や橋本雅邦らは、その終焉を飾る狩野派最後の画家であり、西洋美術との相克のなかで伝統的な日本美術の革新を志し、のちの日本画の方向性を創りだしていきます。本章では芳崖を起点に、四天王が学んだ芳崖と同時代の画家、雅邦や木村立嶽の作品を紹介し、狩野派の正統を受け継ぎながら、近代日本の黎明期を生き抜いた輝かしい模索の足跡を紹介します。
                       

【第2章】 芳崖四天王―芳崖芸術を受け継ぐ者―
 狩野芳崖の薫陶を受けた4人の高弟―岡倉秋水、岡不崩、高屋肖哲、本多天城―は、早くから鑑画会を舞台に活躍し、東京美術学校入学後は「芳崖四天王」と称されるなど、日本画の新しい担い手として前途を嘱望されていました。しかしながら師・芳崖を亡くした後は、次第に画壇と距離を置き、それぞれ表舞台からその姿を消していきます。東京美術学校を中退し教育者に転じた者、本草学の研究を志した者、あるいは高野山に参籠し仏教美術研究に傾倒する者など、いずれも時代のはざまに埋没し、今では忘れ去られた画家といえるでしょう。 四天王の存在と活動は、芳崖から東京美術学校、日本美術院へと続く革新的な近代日本画の流れとは異なる「もうひとつの水脈」であり、近代日本画の多様性を示しています。本章ではその水脈を辿ることで、明治維新により終焉を迎えた狩野派のアフターストーリーを見つめ直します。


【第3章】 四天王の同窓生たち=「朦朧体の四天王」による革新画風
 「本章では岡倉覚三(天心)と共に、先駆的な表現を試みた横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月ら日本美術院の画家を取り上げます。明治30年代における朦朧体の実験は広く知られますが、彼らはそれまでの概念を刷新し、時にラディカルに新しい表現を模索していきました。四天王の作品と並べて紹介することで、芳崖が創った多様な流れを検証します。
                    

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