禅の至宝、今ここに 大永平寺展

沿革

禅の至宝、今ここに
大永平寺展

【第1章】 道元禅師と永平寺のあゆみ
 道元禅師は公家の出身で、13歳で比叡山に上り出家しますが、18歳で京都建仁寺で栄西の高弟明全に師事します。その後24歳で求法のため入宋した道元は、やがて天童山の如浄禅師と出会い、「身心脱落」の境地に達します。その後、28歳で帰国、禅の教えを広めることに邁進します。しかしながら、その名声が次第に広まるにつれて、旧仏教からの弾圧に遭います。そして寛元元年(1243)、その拠点を京都から越前志比庄(現福井県永平寺町)へと移し、永平寺を建立しました。第1章では、道元の著作やゆかりの品々を通して、その人と思想、永平寺のあゆみを紹介します。              【第2章】 永平寺の名宝
大本山永平寺は、創建以来、度重なる火災や、一向一揆の戦火に遭いながらも、そのたびに復興され現在まで貴重な宝物を伝えてきました。本章では、770年の長きにわたって守り伝えられてきた永平寺の名宝を紹介します。 【第3章】 永平寺の近現代美術
本章では、明治維新後の永平寺の動向について、近現代日本画家との交流を中心に紹介していきます。画家たちは、禅師との交流を通して、あるいは大遠忌の記念事業の一環として多くの作品を山内に残しています。永平寺に伝わる名画の数々をご覧いただきます。 【坐禅体験コーナー】
美術館の新しい試みの一つとして、「触れて感じる」をテーマに坐禅や禅文化を体験できるコーナーを設置しました。永平寺で実際に使用している「吉祥単」と呼ばれている移動可能な仮設用の単(坐禅するための台)や坐蒲を用いて坐禅を組むことができます。また永平寺所蔵の梆(食事の合図として鳴らす木彫の法器))や応量器(禅宗の修行僧が使用する入れ子状の食器)を併せてご紹介しています。
【出品リスト】

【第1章】道元禅師と永平寺のあゆみ
◎道元ゆかりの品々
◎躍動する鎌倉彫刻!
度重なる火災を潜り抜けてきた永平寺には、鎌倉時代までさかのぼる彫刻が数点伝わっています。なかでも「伽藍神立像 監斎使者」の左足をけり上げて走る姿は躍動感に溢れています。 【第2章】永平寺の名宝
◎狩野探幽晩年の瀟洒な花鳥画
縦150㎝を超える大幅に、梅に金鶏鳥、柳に白鷺、紅葉に白鷴、雪松に鶴など、四季それぞれの花木や鳥を描いた四季花鳥図の四幅対。作者は江戸狩野の確立者で、瀟洒な画風でそれまでの狩野派を一変させた狩野探幽(1602~74)。本作は、亡くなる二年前に描かれた探幽最晩年を代表する作品として見応え十分です。
【第3章】永平寺の近現代美術
◎寺崎廣業の絶筆! 明治後期から大正前期の日本画壇を代表する日本画家・寺崎廣業(1866~1919)が、亡くなる年の大正8年 に描いた畢生の大作です。連峰の雄大さ、屹立する山なみが的確に捉えられ、金地に鮮やかな群青が映える良作です。                          

略歴

道元・永平寺略年表
1200年
道元、京都に生まれる。
1223年
道元、明全らと共に入宋する。
1227年
道元、如浄から嗣書を与えられる。
1243年
道元、波多野義重の支援のもと、京都より越前に入る。
1246年
1244年創建の大佛寺を永平寺と改称する。
1253年
京都で示寂(54歳)。
1372年
後円融天皇より「日本曹洞第一道場」の勅額を賜う。
1539年
後奈良天皇より綸旨を賜う。
            
1574年
永平寺、一向一揆にて焼き討ちに遭う。
1591年
後陽成天皇より出世道場追認の綸旨を賜う。
1854年
道元に「仏性伝東国師」の諡号が下賜される。
1872年
永平寺と總持寺の協和盟約なる。
1879年
道元に「承陽大師」の諡号が下賜される。
1930年
二祖懐奘700回忌を奉修し、大光明蔵や傘松閣など大改修を行う。
2002年
道元750回大遠忌を奉修し、伊藤彬・田渕俊夫の両氏より襖絵が奉納される。